イス座禅会
流れは前回と同じですが、内容は工夫されてバージョンアップ。
6時半開始。
身体をしっかりほぐし、自然な立つ姿勢の説明と
座ったときの姿勢や仙骨の位置の解説があってから短くイス座禅。
8時から30分の座禅をします。
前半は管長さんのガイダンスがありますが、
後半はガイダンズなしで自分の呼吸のペースで瞑想をします。
数を数えたり、吐く息を長くとかではなく、
自分の心地のいい呼吸を見つけて、
作為なしに自然にできるといい、
というのが今回の学び。
臨済録
管長様は訓読みで臨済録を読み解きました。
諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ
仏は本来自分の中に備わっているのだから、
手を加えてつくるようなものではないということ。
それを信じることができたら、心は安楽になります。
その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、
いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。
自分の身体を中心に置き、自分の身体に集中して座禅をしていると、
その場の主人公になる感覚がわかるということでしょう。
私も今回のイス座禅会で世の中にたった一人でいるような感覚がありました
管長様も他の参加者もいなくなったのです。
わずかな時間だったかもしれないのですが、確かにありました。
人のいいなりなぐずでは駄目だ。・・・
大器の人であれば、何よりも他人に惑わされまいとするものだ。
どこででも自ら主人公となれば、その場その場が真実だ。
管長様が付け加えたのは、
「その場その場で正しい判断ができる」
受け身でなく判断の主体は自分。
正しい智慧を持って正しい判断をすることの大切さです。
正しい智慧というのは、真理ということです。
2500年たっても色あせない釈迦の哲学は、
真理であるということ。
といってもお釈迦様が正しいのではなく、
深い洞察でもって真理にたどり着いた人っていう意味だと思います。
「随所に主と作(な)る」の言葉は、
自分軸を持って生きるとか、
気持ちのままに自在に生きる、と通じて
自分を楽しく生きる後押しをしてくれるよう。
自分が主人公になって面白がって生きていいのだと。