70歳過ぎて自在に生きる ほいみんの日記

断捨離から、ヨガ・インド哲学・音訳へと関心が移っています。

『禅の教え12か月』 青山俊董 著 声や音は人格をあらわす 聴いただけで心が安らかになる声を目指して

尼僧

青山老師は現在の日本を代表する尼僧。

曹洞宗の修行道場で尼僧さんを長く指導している方。

青山俊董 - Wikipediaによると、

5歳からお寺の生活をして大学や大学院で仏教を長年学んだ後

澤木興道、内山興正、余語翠巖らに師事した、とあります。

南嶺管長も対談などなさっていますし、

管長日記でもお名前度々が出ます。

 

随筆集

Kindleで軽い随筆集を読んでみました。

サブタイトルは「つれづれ仏教歳時記」とあり、

季節ごとの仏教行事のこともわかりますし、

修行僧との日常の中に感じたこと考えたこと、

釈迦の教えを軸に深めています。

青山老師の短歌やお経の一節、良寛さんの漢詩なども載っていて

内容も深くおもしろいです。

 

声や音は人格をあらわす

あるとき他の尼僧が鐘をつく音が、

妙に頭にぶつかってくるのに気がつきます。

聞いてみると、「108の煩悩を突いて突いて突きまくる」つもりで、

煩悩をやっつけてやろうという気持ちで突いていたのです。

「梵鐘の音は梵音といって仏の声。仏の慈悲のぬくもりで、煩悩の氷を溶かす」

と青山老師は諭したという話です。

 

つまり、

鐘や太鼓などの鳴らしものの音さえ、それを鳴らす人の心が、音を通して現れてくるから恐ろしい。

どんな気持ちかがわかるし、

気持ちがこもっていないのもわかってしまうのでしょうね。

視覚障害の方とお話しするときは、聴覚で情報を読み取る能力が高く、

こちらの気持ちも話し方で見透かされてしまうような気がします。

 

食事のときの食器や箸のあげおろし、台所での鍋釜の扱いからお手洗いでの戸の開け閉めに至るまで、どれぞれの立てる音は、その人の心の姿が立てる音である

 

そうそう、けんかをしたときわざとドアを音高く閉めたりしたものです。

 

日常が禅の修行であるって言うことはこういうことなんですね。

テレビで見た情景ですが、

座禅会の準備で一人で全員分の座布団をきれいに並べている僧侶。

こうしているのも瞑想の一種なんです、

と穏やかに言っていたことを思い出します。

音を立てずに戸の開け閉めをすることを心がけるのは、

マインドフルネスの効果があるとも聞いたことがあります。

 

青山老師の

「声を聞いただけで心が安らかになる人もある。逆にいらだってくるひともある。」

という言葉をしっかり胸に刻んで、

これから広報の記事を読んでみようと思います。

 

家族にももちろん優しい声をかけなくっちゃね。

リネンの端布で同じ形を 制服化できそう