管長日記を読む
毎日の管長日記を声を出して読んでいます。
今日も音読をしていて感情があふれて声が出なくなりました。
家出をする息子にお赤飯を炊く母親の話です。
貧しさから抜け出すため、跡取りでありながら出ていくのを、
表だっては応援できないけど黙って心を込めたお赤飯で送る話です。
母親が涙をこらえて作ってくれたそのお赤飯が
以後はお守りのように青年が悪い道に進むのを阻み、
成功へと導いていったという話で落涙物です。
良い話だけど
私も読んでいて胸が塞がれるようで声が詰まりました。
ただ目で読むだけでなく、声に出すとこんなに感情移入できる。
でも音訳では感情に流されずしっかり淡々と読まなくてはなりません。
でも後から思いました。
この話を紹介した老師は
「家出を察しその日にお赤飯を用意した母親の智慧ある慈悲」をほめています。
南嶺管長も
「手間暇かけたお赤飯を用意したお母さんの深い愛情」に感動しています。
手間暇をかけることでしか心を伝えることができない
と言っているようでちょっと気になります。
手間を省いたり効率化ばかりを追求する現代の風潮は問題ですが、
手間暇をかけなさい、というのも違うと思います。
母親はだれも子どものために自分を犠牲にする、
子どもの幸せを心から願わない母親はいない、
それは固定観念だと思います。
手間暇かけろと言われて、追い詰められる働く母親がたくさんいます。
子どもの虐待やネグレクトがこれだけ多くなっているのが現状です。
慈悲深い母親像を唱え続けて良いのかしらと思います。
既成宗教への違和感ってこういうところにあるのではないかしら。
親から虐待を受けた子どもたちの心を救うことはできないです。