70歳過ぎて自在に生きる ほいみんの日記

断捨離から、ヨガ・インド哲学・音訳へと関心が移っています。

白隠禅師と盤珪禅師 どちらも大切にする考え方

盤珪禅師(ばんけいぜんじ)

江戸時代中期の禅僧です。

白隠禅師(はくいんぜんじ)より少し前に禅宗で大きな影響力を持っていた高僧。

開山となったお寺の数も育てた弟子の数も白隠に負けないくらい。

それが、今では白隠の陰に隠れてあまり評価されていないそうです。

それは、

「特別な修行はしなくても、生まれながらに仏性は備わっている」

「苦労して修行する必要はない」

という教えが、

「なにも苦しい修行をしなくてもいい」と捉えられ、

怠惰なほうに流れてしまったからのようです。

 

盤珪そのものは命がけの修行をして、その後に至った心境なのだけど、

到達するまでのプロセスを抜きに、もう自分の中に仏性はあると思ったら、

自分を甘やかしてしまうし、弟子を育てることも難しくなります。

それが禅宗や僧侶の俗化と退廃を招き、

それ以後白隠がその刷新をすることになるのです。

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白隠禅師

退廃堕落していた禅僧のありさまに鉄槌をくだしたような方。

臨済宗の中興の祖ともいわれて、

今の臨済宗はほとんどが白隠の系統だそうです。

ご自身が厳しい修行をして禅病にかかり、

死にそうになったのを呼吸法や内観法、軟酥の法による養生で治したことも有名です。

 

白隠の禅は公案という問答を師弟で繰り広げ、

常識とか分別をとことん壊していく厳しいものです。

 

だから盤珪禅師の「何も造作はいらない、修行もいらない」

という考えとは正反対です。

 

白隠盤珪禅師あっての白隠禅師

南嶺管長はどちらをも大切に考えています。

盤珪禅師もご自身が死に物狂いの修行をした後に、

生まれながらに仏性があると悟ったのです。

それで自分がした苦労を弟子や衆生の人々にはさせたくない、

という慈悲のこころで「修行しなくても仏性はあるのだ」

とお話ししたのです。

厳しい修行があっての、「ありのままでよい」という心境です。

 

南嶺管長は坐禅のときに棒で打つことを止めました。

食事も掻き込むことより、味わうことも大切と説いています。

睡眠も大事でむやみに睡眠を削ることを良しとしません。

 

伝統的な臨済宗の修行方法の問題点を直視し、

古今の祖師達の教えに照らし合わせて禅の本質を探っています。

 

現代に通用し、未来にも続いていく禅を模索して改革しているのだと思います。

イス坐禅の試みも、そういうダイナミックな禅改革の動きだと思っています。

(今まで座禅と書いていましたが、坐禅と書くのが正しかったです)

 

毎年見事に黄葉します