コメダ珈琲
今日は本を持って久しぶりのコメダ珈琲へ。
『禅の神髄 臨済録』は難しくて再挑戦中。
法話で出てきた漢字や熟語がたくさん出てきます。
難しい感じは少なくて読みやすいです。
だんだんわかってくる
『ないがままで生きる』は2016年の出版で、新聞や雑誌に掲載されたものを編んだものです。
「はじめに」でこの本の狙いを書いています。
今こそ世界は、東洋の叡智を共有すべき時ではないだろうか。
この本では「無分別」「無常」「無我」「無心」という仏教の智慧、また「無為自然」に象徴される老荘思想、そして「無限」では、秩序や必然が、いかに人間の自由に関わるのかを考察してみた。(略)日本で成熟した仏教や神、老荘の考え方に、今だから触れて欲しい。
出てくるの禅僧の名前もだいぶ聞き慣れてきました。
白隠禅師がどのような人で、養生法の内観や軟酥の法(なんそのほう)ももう知っています。
だんだんくっきりわかってくるようになりました。
思い出だって大切
持って行ったノートを読み返していたら、
過去にとらわれている人、未来の不安にとらわれているに人どちらも今に生きていない、というくだりで
具体例としてあげられていたのは、
「高校時代は良かったと思うのは過去に生きている」
今日は高校時代の友人の密葬です。
たまには昔の思い出に浸るのもいいんじゃない、って思いました。
毎日部室で夕方遅くまでいたことは覚えているのですが、何をしていたのかしら。
用がなくても部室に集まっていました。
彼の結婚式にも出たし、我が家に遊びに来たこともあるし。
思い出はたくさん。
芭蕉の句
本の中にあった芭蕉の句
よくみれば薺(ナズナ)花咲く垣根かな
なぜよく見たのか?
おそらくそこには何らかの喪失体験がある。
喪失による余白あればこそ、人は再び無心で「よく」見聞きすることが可能になる。
喪失に抗おうとする努力は時に諦念の欠如として醜く見える
友人が亡くなったのは一つの喪失体験です。
ふたたび見聞きするのではなく、忘れかけていた大事なものをもう一度見いだす、
そんな体験を今しています。
今日は友を悼む一日でした。