臨済録
取り上げた禅語は
「病は不自信の処に在り」
これだけではわかりません。
病気は気弱になるからだという意味ではないです。
以下南嶺管長のお話をメモしました。
この場合の「病」とは
欠点のこと。
修行しても上手くいかない欠点は、自らを信じ切れないから。
では、何を信じるか。
「自身是れ仏、此の心即ち是れ仏心」
ということを信じ切れていない。
明日が来ることは信じているから安心して夜休むことができる。
でも自分の仏心は信じ切れない。
信じる能力が偏っていることを見いだすために、座禅をする。
私たちは普段正しい判断をしていない。
自分中心の考え方しかしていない。
この自分中心で競争したり妬んだりして「苦」が生まれる。
自分中心を否定するのが禅の目的。
仏心とは
誰にも本来備わっている仏心とは
智慧と慈悲です。
智慧=正しい判断
慈悲=相手の立場になって物事を見る
仏教では
「信」=客観的知的理解に基づく信頼
妄想、盲目的に信じるのではない。
誰にも備わっている仏心を、
気づかず発揮できないでいる。
本を読んでわかったつもりではダメ
「言葉の上の響きの良さだけで、生きた祖仏の心は絶対つかめぬ」
どれだけ実践し、仏心を現実に発揮するかで違ってくる。
同じ可能性を持ちながら発揮できないのは、
自分自身を信じ切れないからだ。
信じるへのプロセス
本を読んだり法話、講話を聞くだけで信じることはできない。
つまり禅は日常正解で実践することが繰り返しと枯れます。
今回の講話でそのプロセスを簡潔に示されました。
理解→感動→意欲→確信
この中の意欲のところが実践になると思います。
いいなって思ったことを日常に実践することで
確信になり自分の軸にもなるのでしょう。
たんにためになる情報を集めるだけでは、
最初の理解のところでとどまっています。
私が確信していること、どれくらいあるのかしら。