70歳過ぎて自在に生きる ほいみんの日記

断捨離から、ヨガ・インド哲学・音訳へと関心が移っています。

苦しみの構造を冷静に智慧をもって見る 仏教的悩みから逃れる方法(2) 十二因縁

私たちの一生

昨日の続き、南嶺管長の日記から仏教の根本哲学について。

 

因縁というと、単なる原因と結果というような意味に思いますが、

仏教ではもっと哲学的な認識方法のことを指しているようです。

南嶺管長はこのように解説しています。

 

岩波の『仏教辞典』で「十二因縁」を調べてみると、

1)無明 (無知)、ムミョウ
2)行 (潜在的形成力)、ギョウ
3)識 (識別作用)、シキ
4)名色 (名称と形態)、ミョウシキ
5)六処(六つの領域、眼耳鼻舌身意の六感官)ロクショ
6)触 (接触)、ショク ソク
7)受 (感受作用)、ジュ
8)愛 (渇愛、妄執)、アイ
9)取 (執着)、シュ
10)有 (生存)、ウ
11)生 (生まれること)、セイ
12)老死 (老い死にゆくこと)、ロウシ

 

まずはじめに何も分からない無明という闇があります。

そこから何かが形成されようとします。
このはたらきが「行」であります。

それによって、意識が生まれます。

意識が生まれて、そこに名前と身体が具わります。

身体には、六つの感覚器官が具わります。

その感覚器官が外の世界に触れます。

触れると、心地よいと感じることがあります。

心地よいと感じたものには、もっと欲しいと思います。

さらに自分のものにしたいと思います。

自分のものにしてしまい、自分の生を営んで、やがて老いを迎えて死ぬのであります。

このような迷いの過程を明らかにしたのが、十二因縁なのです。

簡単に言うと

十二因縁を観じるということは、私たちはどのようにして迷いを作り上げるのかを明らかにすることなのであります。

ということなのですが、まだ良くわかりません。

これがわかってしまったら、腹落ちしたなら、

悟ったということですから迷ったままでもいいのです。

 

でも、悟る努力をしないで迷ったままでいてはいけないというのが禅です。

 

本当に薄墨を塗り重ねるように、と言うことばがありますが、

少しずつ智慧を授かっていけるかなっていう願望です。

 

仏教の教えの中には、すぐに今の苦しい気持ちを軽くする智慧もあります。

それでも尽きない苦しみが生じてくる深い苦しみへの優しいまなざし、

それが仏の慈悲とでもいうのでしょうか。

その慈悲によって救われるというのかな。

 

大きな苦しみに出会っていない私が考えることは、深くなりません。

とは言っても苦しみも相対的なことで、苦しみや悩みのない人はいないのです。

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円覚寺山門 円覚寺HPより

この秋は円覚寺に行くことができるのでしょうか。