空
般若心経では、自他の区別はないということが繰り返す説かれています。
サイエンスライターの柳澤桂子さんの本にもそのことが書いてあります。
自分と対象物という見方をするところに執着が生まれ、欲の原因になります。
あなたもありません。私もありません。
科学者なのにそんなこと、と本を読んだときは違和感がありました。
他の本に書いてあったのですが、
確か雨の降る日にその雨と自分が一続きのもので、自分と雨が溶け合うような神秘体験をしたのです。
それは、量子力学ですべてが粒で粒の密度の違いでしかなくつながっているという考え方につながるものです。
一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけなのです。
例えば私もヒトラーもつながっている、同質だなんてそんなこと考えられないと思いました。
家の庭は私の姿
最近少しだけそれがわかった気する経験をしました。
知人が私の家に届け物をしてくれたときです。
始めて私の家に来るので地図を書きました。
ポストの中に品物をいれて帰りました。
ふと考えました。
その知人が私の家をみたとき、その家に私の姿を見ただろうと。
雑草が生えていて、不用になったガラクタがそのままある家の姿を恥じました。
家の周りの姿も私の構成分子の一つとなって、私を表現しています。
他人からの見た目というだけでなく、そのまま放ってある自分の心の有り様はまさしく私自身です。
部屋の乱れは心の乱れとも言われ、禅では簡素で清潔整頓された部屋、庭も行き届いた掃除がなされます。
こんなふうに私は一人で存在していなくて、廻りのものも一緒になって認識されるのです。
それを広げていけば、自分と他との区別はなくなっていきます。
そんな風に思い至るようになりました。
ほんの小さな気づきですが、ちょっと嬉しくなりました。