学得底と体得底
NHKの「こころの時間」という番組を録画して繰り返し見ています。
『シリーズ 唯識に生きる』最終回での学びは体得底。
禅寺での修行のエピソードを交えて、行動することの大切さを説いています。
頭だけの学問(学得底)ではなく、身体で会得(体得底)しなくては身につかないということです。
毎日同じ
禅寺での修行は毎日同じ事の繰り返しです。
毎日同じでも、気づきによって毎日が違っていくというのです。
気づくか気づかないか、健康ヨーガでも
「気づきが一番大切」と毎回言われます。
禅寺では日常の作務が修行です。
ヨーガも日常のヨーガです。
己事究明
他のことに気を移さず、日常の作務に没頭することは自分の心の世界に没頭することになります。
自分のこと、自分の心を究明していくことが修行というわけです。
日常の作務を繰り返していくと、ムダが省かれて手際がよくなります。
(手際がよくなるためには気づきが必要)
ムダをそぎおとしてできた時間を、心の究明に使って修行を積むわけです。
体得によってのみ
確かに身体を動かしてしか、この境地には至れません。
私の生活に落とし込んでみると
・起床時、何も考えずすぐヨーガの簡易体操から朝食準備にとりかかる
・掃除をルーチン化して毎日一定時間に一定箇所をする
これくらいから始めてみようかしら。
何度も心に決めてきたことのようですが、何度でも繰り返し「薫習」することで心の奥底の種子(しゅうじ)を育てることができるのだそうです。
熏習(くんじゅう、梵: vāsanā、abhyāsa、bhāvanā)とは、身口に現れる善悪の行法もしくは意に現れる善悪の思想が、起こるに随ってその気分を真如あるいは阿頼耶識に留めること。俗にいう「移り香」、香りが衣に染み付いて残存するようなことを言う[1]。
薫習が身口意に現れたのを「現行法」(げんぎょうほう)といい、真如あるいは阿頼耶識に気分が留まったものを「種子(しゅうじ)」あるいは「習気」(じっけ)という。このように現行法が真如あるいは阿頼耶識にその種子もしくは習気を留める作用を薫習という。(Wikipediaより)
妄想
スマート家電を使いこなす事って、無駄を省いて手際よくを機械にやらせているとも言えます。
素材を生かした、計算された塩味だけの勝間飯も現代の精進料理とも言えそうです。
私の妄想が走り出しました。
これならできる禅修行です。