星野さんはたぐいまれな精神の持ち主
視覚障害の方の事について考えるうちに、他の障害を持った方の本も読みたいと思うようになりました。そして手に取ったのが星野富弘さんの本です。
星野さんは有名です。体育の教師で、若い頃に機械体操中の事故で寝たきりになった方です。
でも、今までは詳しく知ろうと思ったことはありませんでした。
口にくわえた筆でお花の絵を描く人というくらいの知識しかありませんでした。
口を使って絵を描くことが、生計のためぐらいにしか想像できていなかったのです。
この本を読んで、私はなんて世の中をしっかり見ていないんだろうと思いました。
恥じるばかりです。
魂が絶望からかすかな光を見いだし、たゆまぬ努力をし続けた結果の
たぐいまれな文章と植物画
人の心を打つのにはそれだけの理由があるのに、知ろうとしなかった、感じることができなかった私の心は、感性が干からびてこわばっていました。
障がい者が生きやすい社会は必要
障害を持っている方には、先天的な場合と後天的な場合があります。
でも、誰もがその可能性があるという点では同じです。
ある確率で障害を持った方が生まれるのは、生物の多様性という意味で必要なのです。
多様性のない生物は滅んでしまいます。
後天的な事故や怪我も、確率の問題です。
誰かが、私の代わりにその確率を引き受けてくれているだけです。
ある比率で、誰でもが障がい者になるから、障がい者が暮らしやすい社会が万人にとって必要なのです。
誰にでもある醜さも正視して
本の中では、かなり本音のところを書いています。
献身的に看護するお母さんにも、厳しく怒りをぶつけることがありました。
病室の患者の回復に、嫉妬する心に苦しむ姿もありのままに書いてあります。
でも、本当に辛く苦しかったことは、書ききれていないそうです。
それほどの「深い淵」だったというわけです。
そして、信仰を得ていくのは魂の葛藤の末です。
花を描くまでのプロセス
具体的に、口に筆を加えて字を書き花を描くようになるプロセスが書かれています。
小さな地味な基礎を積み重ねていけば、器械体操の華麗な技のように口でだってきっと美しい文字が書けるようになると思った。
何年かかっても良い、それをやることが、体操をやってきた者として、器械体操で怪我をしてしまったものとして、体育の教師として、私に与えられた義務であるような気がした。
下手でもいいじゃないか、どんなにのろくてもいいじゃないか、初めて吊り輪にぶら下がった時だってなんにも出来なかったではないか。
小さな基礎的なことの継続。
日常生活でもそうです。
当たり前だけどなかなかできない、彼にはそれができた、だから素晴らしいのです。
母は、スケッチブックを持ちながら身動きはもちろんくしゃみをすることさえ我慢して、私の字が次第にうまくなるのを見守ってくれた。
私はこんなことができるかしら。
見守り、手助けをし続ける忍耐心。
頭が下がります。
病院から1歩も出られない私だけれど、体力と精神の限りを尽くして書いた文字は文字というより、私の分身のような気がして、それが汽車に乗り、遠いところへ出かけていくのだと思いながら書いた。
現在の私は、彼よりもっとたくさんのことができる身体を持っています。
読んで、書いて、歩いて、遠い世界を知り、発信することもできます。
もっと真摯に書いたり、話したりすることで、世の中と関わっていけたらなぁと思います。
星野さんのカレンダーが欲しくなりました。
ふるさとの村にある美術館にもいつか行ってみたいです。
いえ、私は自分の足で行くことができるのだから、行きます。
行動します。