2月に図書館にリクエストしてやっと手元に届きました。
まだ予約している人が69人います。
我が子をお風呂に落として死なせてしまった被告女性と、その裁判の裁判員補欠となった主人公の女性二人が出てきます。
家族関係
社会生活の最小単位として家族があると思います。
最小単位の個人の次の単位です。
ひとりで生きていくと決めても、生まれ育ったある時期までは家族がいるという環境がほとんどだと思います。
自分の育った家族を肯定できないままに、家族の作り方がわからないと思いながらも、家族を作ってしまった女性たちのお話と言ってもいいかもしれないです。
刷り込まれた価値観、押し付けられた価値観、世の中の多数と思われる価値観に自分を添わせてきて、自分本来の快活さを失っていると気がついていく過程を描いています。
自分自身のことでは、と思うような心の動きがたくさん出てきました。
良き親であろう、善き人であろうと思いつつ、余裕がなくなるとすぐにかっとして、その怒りをコントロールできなくなる。・・・だから余裕のないときに、思いついた言葉を投げつけたりしてはいけない。・・・そういうときは深呼吸して落ち着いて、ほんの数ミリでも余裕を取り戻して見せれば、意味のない応戦にはならず、どちらも不快な思いをすることはない。
わたしが、このことに気がついたのはつい最近です。いままで不毛で不快な争いをずいぶんしてきたと思います。
そうわかってもできないのだけど、というのが主人公のつぶやき。
うん、勝とうと思わないことにしよう、攻撃はやめよう、と思うことで穏やかな日常を続けていけることを喜んでいるのが、私の感慨。
主人公は女性ですが、男性はどうなんでしょう。
子育て
主人公は自分がちゃんと育てられなかったから、ちゃんとした子育てができないのではと不安に思っています。
「ちゃんと」というのはあいまいな言葉です。
最初私は、主人公が子育て放棄とか虐待などに会っていたのかと思ったのですが、どうもそうではないらしいのです。
わりと当たり前のような家族だと思うのですが、ずいぶん親に批判的です。
子育てを手伝ってくれようとする義理の親に対しても、有難いというより怒りのようなものさえ感じています。
夫やその親の手助けや助言を、好意とは取れないところが二人の登場人物どちらにもあります。「できないことを責められている」と感じてしまう被害者意識です。
そんなことに気がついてから、主人公は被告女性と自分を重ね合わせてみるようになっていきます。
理屈では分かっていても、感情がついていかないことはわかります。
そう言う事ってとても多いのです。
でも、そういう感情がどういう事か事細かく分析していったら、腑に落ちることができるかもしれない、今の私はそう思います。
若い時にはできなかったです。
夫婦
被告女性は、向上心のある前向きな性格だったけど、結婚してから自信を無くしてしまいます。証人に立った被告女性の友人の言葉ですが、
おだやかに話し、笑いすらしながら、第三者の前で、相手を罵り、優位性を誇示しようとしている、それがごく日常的は雰囲気としてそこにある、そのことが有美枝には恐ろしく思えた。
そう言う事ってあると思います。
気持ちの持ちようなのですが、ネガティブな関係になっていると負の連鎖が起きます。
なにか家事の不手際を指摘されると、家事全般そして全人格を否定されたような気持になってしまいます。
それが重なると、非難されたくないとびくびくしてしまいます。
主人公は夫の目の前でビールを飲むことができなくなり、こっそり飲むようになったりします。
安心できる存在でなくなってしまうのです。
相手の機嫌を損ねないように、言葉や行動を規制して苦しくなっていくでしょう。
でも、その相手も、機嫌を損なわないように気を使っていることにはなかなか気がつかないものなのですね。
お互いに本音を、相手を傷つけることなく言えたらどんなにすがすがしいでしょう!
それってアサーティブの方法ですね。
アサーティブについてはまた別に。
親
この小説を読んで、親とはこんなにも難しいものかと思いました。
普通に、ちゃんと育てたつもりでも、子供は不満を持ち離れていってしまうのです。
この小説のような関係ばかりではないでしょうか、親として覚悟を決めなくてはと思いました。
どのように育てても正解はなく、また子供は別の人格で別の人生を歩んでいくのだということです。
実の子どもでも、義理の子どもでも、過大な期待はやめましょう。
幸せになってほしいと思いますし、できる手助けはしますが、それで何かを期待することはよくないと思います。執着です。
今自分にできることを、「その行為の結果にとらわれることなく誠実」に行うってことがギーターにも書いてありました。
それが、心の平安につながります。
ここでも、ギーターの智慧に納得です。
自分で生活を作らなかった
主人公二人とも、自分で積極的に家庭を作らなかったと言えます。
家庭とか家族を求めていなかったけど、世間並みという社会的な流れでなんとかなるだろうと家庭を作ったのではないでしょうか。
それは、私もそうなのですが。
そう、こんなところでも私は主人公たちと重なり合います。
そして、たくさんの女性が之記気がついてぎょっとするのではないでしょうか?
他人任せ
他人に判断をゆだねているから、その結果に愚痴ばかりになるのではと気がつきました。
頭の中でもやもやしていたことを、明らかにしてくれたようです。
そういうことです。
自分で判断し行動したことなら、言い訳をすることなく自分の気持ちで収めることができます。
他人に気に入られよう、あるいは気に障って怒りを生じさせないようにとばかり考えて行動していると、足元がふらふらしてくるのです。
ヨガで下半身をしっかりして、軸を見つけましょうと言っていることとつながってきます。
自分の軸を見つけて、自分の足で立つこと、しっかり立つバランスを取り、バランスを保つための筋肉をつけること、それのすべてを日常生活にも落とし込めるようです。
ヨガは自分でするしかありません。いくら本を読み、YouTubeの動画を見てもヨガの上達はかないません。
自分が動くしかないのよ、他人任せにはできないのよ、ということを実感させてくれるのもヨガです。
他人は自分で作り上げた妄想(マーヤー)
もうひとつ突っ込んで考えて、他人も自分で作り上げていると言えます。
物語の中で、主人公の女性二人は頭のなかでたくさんの妄想を抱いています。
夫や両親、義理の両親などにネガティブな考えを抱いています。
そんな風に悪く思うことないのに、と私は感じてしまいます。
そこで、気がつきました。
他人も自分が作り上げた妄想だということ。
物語の中で義母が疲れているだろうと惣菜を作ってくれるのですが、家事をできない自分が責められているように感じてしまいます。
責めていると思わないで、ねぎらってくれたと思えばいいだけの話なのに、妄想で不安が増大し、頭の中できりきり舞いしているのです。
「そうかもしれない」「そうでないかもしれない」、どちらを選ぶのかは自分の自由なのだから、自分に楽になるように考えればいいということも、私はインド哲学で学びました。。
客観的にみて、最悪も最良も考えてみて、無駄に不安にならないようにできたら、苦しまなくてもすみます。
最悪の事態になったら、その時の最善をすればいいのですし。
目の前のことに集中することも、ヨガの教えですね。
それがなかなかできないから、こうして小説になって多くの人が読みたいと思うのでしょうね。
ヨガとインド哲学を学んでいると、その心のコントロールの智慧も身に付けることができるようになるのだと思えます。
私はこのごろ、心が楽になりました。
妄想がなくなると、シンプルになります。