70歳過ぎて自在に生きる ほいみんの日記

断捨離から、ヨガ・インド哲学・音訳へと関心が移っています。

角田光代『坂の途中の家』 泣きたいようなドンピシャの記述ばかり

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2月に図書館にリクエストしてやっと手元に届きました。

まだ予約している人が69人います。

 

我が子をお風呂に落として死なせてしまった被告女性と、その裁判の裁判員補欠となった主人公の女性二人が出てきます。

家族関係

社会生活の最小単位として家族があると思います。

最小単位の個人の次の単位です。

ひとりで生きていくと決めても、生まれ育ったある時期までは家族がいるという環境がほとんどだと思います。

自分の育った家族を肯定できないままに、家族の作り方がわからないと思いながらも、家族を作ってしまった女性たちのお話と言ってもいいかもしれないです。

刷り込まれた価値観、押し付けられた価値観、世の中の多数と思われる価値観に自分を添わせてきて、自分本来の快活さを失っていると気がついていく過程を描いています。

 

自分自身のことでは、と思うような心の動きがたくさん出てきました。

 

良き親であろう、善き人であろうと思いつつ、余裕がなくなるとすぐにかっとして、その怒りをコントロールできなくなる。・・・だから余裕のないときに、思いついた言葉を投げつけたりしてはいけない。・・・そういうときは深呼吸して落ち着いて、ほんの数ミリでも余裕を取り戻して見せれば、意味のない応戦にはならず、どちらも不快な思いをすることはない。

わたしが、このことに気がついたのはつい最近です。いままで不毛で不快な争いをずいぶんしてきたと思います。

そうわかってもできないのだけど、というのが主人公のつぶやき。

うん、勝とうと思わないことにしよう、攻撃はやめよう、と思うことで穏やかな日常を続けていけることを喜んでいるのが、私の感慨。

 

主人公は女性ですが、男性はどうなんでしょう。

 

子育て

主人公は自分がちゃんと育てられなかったから、ちゃんとした子育てができないのではと不安に思っています。

「ちゃんと」というのはあいまいな言葉です。

最初私は、主人公が子育て放棄とか虐待などに会っていたのかと思ったのですが、どうもそうではないらしいのです。

わりと当たり前のような家族だと思うのですが、ずいぶん親に批判的です。

子育てを手伝ってくれようとする義理の親に対しても、有難いというより怒りのようなものさえ感じています。

 

夫やその親の手助けや助言を、好意とは取れないところが二人の登場人物どちらにもあります。「できないことを責められている」と感じてしまう被害者意識です。

 

そんなことに気がついてから、主人公は被告女性と自分を重ね合わせてみるようになっていきます。

 

理屈では分かっていても、感情がついていかないことはわかります。

 

そう言う事ってとても多いのです。

 

でも、そういう感情がどういう事か事細かく分析していったら、腑に落ちることができるかもしれない、今の私はそう思います。

 

若い時にはできなかったです。

 

夫婦

被告女性は、向上心のある前向きな性格だったけど、結婚してから自信を無くしてしまいます。証人に立った被告女性の友人の言葉ですが、

おだやかに話し、笑いすらしながら、第三者の前で、相手を罵り、優位性を誇示しようとしている、それがごく日常的は雰囲気としてそこにある、そのことが有美枝には恐ろしく思えた。

そう言う事ってあると思います。

気持ちの持ちようなのですが、ネガティブな関係になっていると負の連鎖が起きます。

 

なにか家事の不手際を指摘されると、家事全般そして全人格を否定されたような気持になってしまいます。

それが重なると、非難されたくないとびくびくしてしまいます。

主人公は夫の目の前でビールを飲むことができなくなり、こっそり飲むようになったりします。

 

安心できる存在でなくなってしまうのです。

相手の機嫌を損ねないように、言葉や行動を規制して苦しくなっていくでしょう。

でも、その相手も、機嫌を損なわないように気を使っていることにはなかなか気がつかないものなのですね。

 

お互いに本音を、相手を傷つけることなく言えたらどんなにすがすがしいでしょう!

 

それってアサーティブの方法ですね。

アサーティブについてはまた別に。

 

この小説を読んで、親とはこんなにも難しいものかと思いました。

普通に、ちゃんと育てたつもりでも、子供は不満を持ち離れていってしまうのです。

 

この小説のような関係ばかりではないでしょうか、親として覚悟を決めなくてはと思いました。

どのように育てても正解はなく、また子供は別の人格で別の人生を歩んでいくのだということです。

実の子どもでも、義理の子どもでも、過大な期待はやめましょう。

幸せになってほしいと思いますし、できる手助けはしますが、それで何かを期待することはよくないと思います。執着です。

 

今自分にできることを、「その行為の結果にとらわれることなく誠実」に行うってことがギーターにも書いてありました。

それが、心の平安につながります。

ここでも、ギーターの智慧に納得です。

 

自分で生活を作らなかった

主人公二人とも、自分で積極的に家庭を作らなかったと言えます。

家庭とか家族を求めていなかったけど、世間並みという社会的な流れでなんとかなるだろうと家庭を作ったのではないでしょうか。

それは、私もそうなのですが。

そう、こんなところでも私は主人公たちと重なり合います。

そして、たくさんの女性が之記気がついてぎょっとするのではないでしょうか?

他人任せ

他人に判断をゆだねているから、その結果に愚痴ばかりになるのではと気がつきました。

頭の中でもやもやしていたことを、明らかにしてくれたようです。

そういうことです。

自分で判断し行動したことなら、言い訳をすることなく自分の気持ちで収めることができます。

他人に気に入られよう、あるいは気に障って怒りを生じさせないようにとばかり考えて行動していると、足元がふらふらしてくるのです。

 

ヨガで下半身をしっかりして、軸を見つけましょうと言っていることとつながってきます。

 

自分の軸を見つけて、自分の足で立つこと、しっかり立つバランスを取り、バランスを保つための筋肉をつけること、それのすべてを日常生活にも落とし込めるようです。

 

ヨガは自分でするしかありません。いくら本を読み、YouTubeの動画を見てもヨガの上達はかないません。

 

自分が動くしかないのよ、他人任せにはできないのよ、ということを実感させてくれるのもヨガです。

 

他人は自分で作り上げた妄想(マーヤー)

もうひとつ突っ込んで考えて、他人も自分で作り上げていると言えます。

物語の中で、主人公の女性二人は頭のなかでたくさんの妄想を抱いています。

夫や両親、義理の両親などにネガティブな考えを抱いています。

そんな風に悪く思うことないのに、と私は感じてしまいます。

 

そこで、気がつきました。

 

他人も自分が作り上げた妄想だということ。

 

物語の中で義母が疲れているだろうと惣菜を作ってくれるのですが、家事をできない自分が責められているように感じてしまいます。

責めていると思わないで、ねぎらってくれたと思えばいいだけの話なのに、妄想で不安が増大し、頭の中できりきり舞いしているのです。

 

「そうかもしれない」「そうでないかもしれない」、どちらを選ぶのかは自分の自由なのだから、自分に楽になるように考えればいいということも、私はインド哲学で学びました。。

 

客観的にみて、最悪も最良も考えてみて、無駄に不安にならないようにできたら、苦しまなくてもすみます。

最悪の事態になったら、その時の最善をすればいいのですし。

目の前のことに集中することも、ヨガの教えですね。

 

それがなかなかできないから、こうして小説になって多くの人が読みたいと思うのでしょうね。

 

ヨガとインド哲学を学んでいると、その心のコントロールの智慧も身に付けることができるようになるのだと思えます。

 

私はこのごろ、心が楽になりました。

妄想がなくなると、シンプルになります。

アシュタンガ やってますって言えるのかしら

昨日の銀座ヨガ

ひさしぶりにうちこヨガに参加で銀座に行きました。

夏の間、あせもで首回りが痒くなるからと言い訳のようなことで

あまりヨガをしていませんでした。

家事の合間に鏡を見て

・立木のポーズ

・ウッティタ・ハスタ・パダングシュタアサナ

( 伸ばした足の親指を、手でつかんでバランスを取るポーズ)

なんかをしていました。

逆立ちの練習はしばらくお休みしていたので、銀座に行く前の日に久しぶりにしてみたら、ちょっと維持できたので一安心。

 

いまインドからたいそうえらいアシュタンガの先生が来ているとは他の人のブログに書いてあったのですが、それに参加するために東京に来ている人らしき人が銀座スタジオにもきていました。

 

バリバリのアシュタンギ(?)っていうのかしら?

いろいろポーズを決めていて、ふーんって感心して眺めました。

他にも上手な人がいたし、初めての人はいなかったのでどんどんカウントが続きたくさんのアーサナをしました。

 

私は途中から見学のほうが多くなりましが、たっぷり汗をかき、気持ちが引き締まりました。

引き締まった体を見せていただいたせいもありますが、前屈したときやねじりの時、私のお腹のぜい肉がとても邪魔しているのに気がついたからです。

 

体動かしていないな、とは思っていたのですがアーサナをしっかりしたので、体型の変化をしっかり感じることができました。

ひとりで、こそこそとアーサナをしているだけでは気がつかないところでした。

 

うちこヨガではプライマリーのハーフ

ところでうちこヨガの練習では

アシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨーガのハーフプライマリーをベースに進行します

と案内されています。

これは始まった時から同じで、最初私はアシュタンガもヴィンヤサもハーフプライマリーも全然意味が分かりませんでした。

 

そして今もヨガをしているのだけど、何ヨガをしているとは言えずしいていえば

「うちこヨガ」

です。

アシュタンガをしているなら、グルについて毎日練習するのが本来のやり方のようです。

そうではないし、そんなにストイックではないからアシュタンガやっていますなんて言えません。

名前なんてどうでもいいと思っています。

 

地元ヨガで言われたこと

地元のスタジオにいって、「どこでどんなヨガをやっていますか」と聞かれると

アシュタンガのハーフプライマリーを・・・・

というと、アシュタンガやっているのね、って言う事になってしまいます。

本当はそうではないんだけどなぁ、と心で思っています。

初めての先生がレッスンが終わった後「さすがアシュタンガですね。」

と言われて、とまどいました。

年齢の割には動けたということでしょうし、初心者ではないということですが、

さすが、といわれてもアシュタンガに悪いような気がしました。

 

私のペースメーカー

うちこさんのところに月に1回くらい行きはじめても、

「ヨガが好きかどうかわからない」と思っていました。

 

申し込んだから、その前にちょっとからだを動かしておかないと一緒に動けないわ。

と思って、あわてて地元のヨガスタジオに行くという感じでした。

ときどき行くペースメーカーのようでした。

 

それなのになぜ続けているのかを考えてみました。

 

それがなかったら、どんどん怠惰になって自分を甘やかしてしまうのを恐れたから?

 

それもありますが、やはり楽しいからだと思います。

 

体や心の変化がうれしいのだと思います。

 

私が見つけた、かけがえのないものだともいえます。

 

自分のことを否定的に見がちなのですが、ここで踏みとどまっているともいえます。

 

これだけは続いている、自分を甘やかしていないということです。

 

 

アマゾンの読み放題をやめる 欲しがりをやめる

いろいろダウンロードしてみて

アマゾンの電子図書読み放題サービス kindle unlimited は最初の1か月間がお試しで無料でした。

そろそろ無料期間が終わるので、継続するかを考えました。

今10冊借りて(?)いますが、どれもちゃんと読めていません。

 

電車の中では、細切れ時間なので難しい本は読めません。

便利情報とか、軽い自己啓発本みたいなものが多くなってしまったのですが、それは別になくてもいいものだと思うのです。

 

大切だと思う本があって、それを吟味しながら読みたいと思ったら、たくさんの本は必要ないなと思えました。

 

角田光代さんの「坂の途中の家」を読んだのですが、とても衝撃的でした。

この余韻をかみしめ、自分の言葉で表わしたいと思っています。こういう小説を1ヶ月に1冊でも読むことができたら、それだけで幸せです。

 

欲しいものはそんなにないし、少しのものを大切にしてかみしめたいです。

 

雑誌

雑誌は何冊か読んだけど、本屋さんでの立ち読みとあまり変わらない感じです。

iPad でないときれいに読めないので、出先で時間が余った時に読むことができないのです。

ヨガや詩吟で出かけるときは、マットやテキストなどで荷物が多いのでスマホしか持ちません。

じっくり本を読みたくていく喫茶店などで、雑誌を読むのは時間がもったいないです。

雑誌が読み放題が kindle unlimited の魅力だと思ったのですが、私の場合は時間のだらだら使いになってしまいます。

 

読むだけで感想をかけない

瞑想とか仏教関係のわかりやすそうな本を何冊か試してみました。

知識としては増えたのですが、定着したとは言えないです。1冊だけではないので、ゆっくりブログに読後感を書く時間がありません。

以下の本をざっと読みました。

・お釈迦様の脳科学 釈迦の教えを先端脳科学者はどう解くか?著者: 苫米地英人

・脳を最高に活かせる人の朝時間 著者: 茂木 健一郎

・マインドフルネス最前線: 瞑想する哲学者、仏教僧、宗教人類学者、医師を訪ねて探る、マインドフルネスとは何か? (サンガ新書) 著者: 香山リカ

・金がないなら頭を使え 頭がないなら手を動かせ: 永江一石のITマーケティング日記2013-2015 ビジネス編  著者: 永江一石

 

メモだけでもいいのか

kindleでは読みながらハイライトしたりメモをつけることができます。

これらは、利用期間が終わっても、自分の手元に残るようです。

そういうたくさんの知識の断片を集めることが、ぶれない考えを持つ人間を作るのにどうだろうかという疑問があります。

「私」はどうなのかを考えることが抜けています。

 

本当に時間を使いたいこと

そんなことを考えたのは、うちこのヨガ日記でバガヴァッド・ギーターの英文の解説書が紹介されていました。

kindle で674円と手頃だと思い、欲しいと思いました。

 

でも、英語の本です。

今までも、英語の勉強にもなるからと手に入れたヨガ関係の英語本があるけど、読み通したことはありません。

こりないというか、ただただ欲しがっている自分をまた発見しました。

 

もし、この解説書を手に入れて読むのだったら、他の本を読む時間なんてありません。

本当に読む気持ちがあるかどうかを、落ち着いて考えてみました。

「中身!検索」機能でちょっと中を見てみたら、ギーターの各章ごとに英語で本文と解説が載っていて読みやすそう。とはいっても、そんなに英語力ないのでたくさん辞書を引きながらになります。

 

とても時間がかかって、それでも進まなくてすぐに放り出すことが目に見えるようです。

少し考えればすぐわかることなのに、欲しいと思ってしまうのはどういう心なのでしょう。

 

本当に私がしたいことは何なのでしょう。

 

と同時に、しなくてはいけないのにしていないこともあるのを忘れてはいけない。

すべきことにもしっかり向き合うこと。

清潔と整頓はヨガでもすべきことになっています。

朝のルーチン掃除とか、毎日のヨガの練習もできないでいる私と向き合うことのほうがさきですね。

 

ギーターの智慧 4章22節

期せずして手に入った物に満足し、他と比較することも羨むこともなく、成功にも失敗にもこだわらない者は、行動しても束縛されない。(熊澤訳) 

たまたま手に入れたもので満足しなさいという訳もありますが、がっついてほしがるのではなく、手に入った物だけで満足しなさいということです。

欲しがる気持ちがあると、いつまでも満足することなく求め続けるのが人間なのでしょう。

読み放題とか食べ放題とかは、欲望を必要以上に駆り立てるように思います。

 

手を伸ばせば何でも手に入る状態が、けっして幸せではないのですね。

 

本もたまたま手に入った物から入る知恵だからこそ、大事にでき記憶に定着させることができるのかもしれません。

 

読み放題はやめました。 

ポケモンGOしながら考えたこと

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機械の不具合

ポケモンGOをしていると、スマホがフリーズして遊べなくなるのは変わりありません。

スマホ用のウィルスソフトを入れてみたり、邪魔をしてスマホに負荷をかけているようなソフトを削除してみましたが変わりありません。

バグの修正が行われて、そのうちスムーズに遊べるかと思っているのですが、どうでしょう。

今朝も6時前からポケスポットでのモンスターボール集めに出かけました。

我が家から徒歩10分以内にポケストップが5カ所あります。

そこをグルグル回っていれば、ポケモンを捕まえるのに必要なモンスターボールをあつめることができるのです。

 

スマホ片手に姿勢を正しながらウォーキングです。

お腹を引き締め、歩幅を大きくして手も振りながら、気持ちよくお散歩しました。

ポケスポットのある公園で、早朝の体操会が行われていました。

中国気功体操とラジオ体操をしているのです。

ポケストップでは5分経過すると同じところでモンスターボールをまた獲得できます。

その5分を体操しながら待つことにしました。

5分ごとにモンスターボールを増やすことができるし、体操もできるし、これは好都合と思ったのです。

 

でも、体操を終えてスマホを見ると・・フリーズしていました!!

 

また再インストールするのですが、もう体操を続ける気がなくなって変えることにしました。

 

やっぱり「たかが散歩の為にこんなことしているなんて」という気持ちが起こりながらも、家に着く前に再インストールは終わっていたので途中のポケストップにも寄りました。

 

わたしって依存しているのかしら?

 

歩きのモチベーション

ポケモンGOがなかったら、早朝に歩くことはしません。

歩くって気持ちいいです。

モンスターボールを集めて、ポケモンを捕まえるのは「小さな成功体験」でもあるとおもうのです。小さな成功体験の積み重ねは、気持ちを明るく肯定的にしてくれると思います。

 

ゲームだから、遊びだからと否定しなくて取り入れていくことは、今までの私とは違う自分の発見にもなると思えます。

 

たのしく歩くことができるのだから、わたしにはいいと思います。

 

でも、こう度々止まってしまう不都合は、楽しい気持ちを低下させてしまいます。

 

再インストールが悪いわけでもない

散歩しながらの再インストールでしたが、時間にしたら5分くらいでした。

そこで考えたのですが、5分くらい待つことは悪いことでもありません。

大体フリーズしたときは、もうここでお休みしなさいってことね、と思えばいいだけです。近くにポケストップがあっても、「今は欲しがらないわ。欲しくってももらえない時もあるのね」という心の練習になります。

欲しがらない、タダだからと欲しがる気持ちがあることに気が付き、それをスルーする小さな訓練を積み重ねることにもなります。

ちょっと、大げさです。

 

再インストールする5分間は、呼吸法をしたり、周りを見回したり、心を鎮める時間にするという使い方もあります。

 

再インストールの時間を何に使うか考えてもいいし、何にも使わなくてもいいと思える気持ちになれるかを確かめたり。

 

再インストールも悪いわけではない

 

*その後再インストールではなく、強制終了でもいいと発見

 

不具合があってもいいと思えたら

そう考えたら、不具合自体も悪いことではないという考えに至りました。

不具合は、私の機種のスペックが低いせいかもしれません。

それは私ではどうすることもできないことです。例えば人間の個性と同じだと思うのです。個人の知力・身体的能力・美醜などと同じだと考えることにしたのです。

ないものねだりでなく、あるもので生きていくことと同じです。

 

私の機種では、ポケモンGOをプレイできるだけのスペックはあるという事実に感謝したいと思うのです。

 

どんなときもあるがままに

スマホゲームでこんなことまで思うようになるなんて、思ってもいませんでした。

生き方、考え方にインドの哲学が少しずつしみわたってきたようです。

 

実体のないものを恐れなくなることは、この頃感じていました。

今回のことで、ないものを欲しがる気持ちが少なくなったのに気が付きました。

手に入らないことは、執着しない気持ちも育っているように思います。

 

心がもやもやふわふわしなかったら、清々しいのだと思います。

自分が主体となって使いこなす

振り回されないで、自分主体で使いこなしてしまえばいいのですよね。

家の周りだけではなかなか進まなかったレベルアップも、遠出の外出が続いたら簡単に進むようになりました。

電車に乗りながらでもできます。

電車に乗っても、本を読みたかったり他のことをしたいときはゲームをしません。

レベルアップは楽しいけど、そんなに執着しなくてちょっとした気分転換だけにします。

 

実は数日前、大きな公園に行ったときポケモンGOをしている人がたくさんいました。

鉄柵にもたれかかってスマホを見つめている人たちを見て、あの中には入りたくないなって思いました。

偏見なのでしょうか。

電車の隣の席でやはりポケモンGOの画面を出している人を見かけ、私はスマホをしまいました。

どういう気持ちなのかしら。

 

楽しくって、散歩や外出のモチベーションが上がればいいじゃないかと思いながら、ゲームを良しとしていない私の価値観があるようです。

そんな風に思う私も、今のありのままの私です。

 

静かに、ひそかに、楽しみたいと思います。

「呼吸リハビリ」 ヨガで病気予防 そして楽な終末期

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理学療法士 中村純子さん

『天然生活』5月号*に中村純子さんという理学療法士の方の記事が載っていました。

彼女は呼吸リハビリの専門家です。スポーツも音楽も「呼吸」の仕方で変わるのだそうです。

アスリートや音楽家が、ベストパフォーマンスを出すことができるようにお手伝いをしているのです。

そんな彼女が終末医療の現場でも活躍しています。

「いかに苦しまずに最期を迎えることができるか」を呼吸の面から支えています。

肺周りの筋肉をほぐしたり、体内の血流をよくするマッサージを施すことによって、患者さんの苦痛を和らげるのです。

機械を使わなくても人の手を使って楽にする方法を身に付けることは、家族や医療従事者・介護従事者にとって心強いことです。患者さんにとっても、機械より人の手で「暖かい気持ち」をより感じられて苦しみを軽減させてくれるだろうと思います。

*amazon 読み放題利用

呼吸リハビリ

について調べてみました。

こちらのページがわかりやすかったです。

rehacon.net

ふつう「呼吸リハビリ」とは呼吸器系の病気になった人とか、病後術後の機能回復の為に行われているようです。

呼吸するために必要な筋肉を鍛えるのですが、たくさんの筋肉が必要なんですね。

この中でも重要な筋肉が2つあります。
横隔膜(おうかくまく)
外肋間筋(がいろっかんきん)

 

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引用画像 

外肋間筋(がいろっかんきん)-筋肉.guide

 

この筋肉はヨガの呼吸法でしっかり鍛えることができます。

それに、全身の例えば下半身の筋肉も鍛えることが大事だというのに驚きました。

全身運動のヨガを毎日することで、意識しなくても呼吸リハビリができていることになります。

 

口呼吸がよくないわけ

ヨガでは基本的には鼻呼吸をします。

鼻は呼吸器ですが、口は食物をとったり言葉を発する器官ということでしょうか。

口呼吸はよくないとよく言われます。

風邪の予防にも鼻呼吸をしなさいと言われますが、私は鼻毛でばい菌を防ぐのかな、くらいに思っていたのですが、それだけではなかったのです。

空気は鼻の粘膜を通って、水分を吸収し湿度が高い状態で気管や肺に入っていきます。この湿度が高い状態が風邪などの感染症予防に効果的なのですね。

 

口呼吸の良くないことは、乾くということから口臭とか虫歯の悪化とも関係してくるそうです。

睡眠時無呼吸症候群とかアレルギーのリスクも高くなります。

 

ヨガの呼吸法のいいところ

 口呼吸を鼻呼吸に直すための方法はいろいろあります。

寝ているときに唇に貼る専用テープも売られています。

でも、ヨガで呼吸法を練習すれば、そんなことしなくても大丈夫なのではないかしら。

 

また、ヨガの呼吸法をすると、普段の生活の中で呼吸が浅くなっていることに気づきます。

深い呼吸を心がけると自然に呼吸に関係する筋肉を鍛えることになります。どこのなんという筋肉かって勉強しなくても大丈夫です。ポーズをとりながら深い呼吸を繰り返していくだけです。

 

それから、たとえば立っているポーズでは、姿勢を保つために下半身も背中もお腹もたくさんの大きな筋肉を使います。筋力が落ちてしまい背中が丸まった姿勢になってしまうと、胸郭がうまく広がらなくなります。   すると、呼吸が浅くなるということになります。   筋肉をつけることと呼吸が深くなることは、どちらが先ということなく両方がつながっているのだと思えます。

 

それが、自分の終末期も楽にしてくれそうです。

終末期

これから高齢者がどんどん多くなって、終末期にある人が身近にいることが増えると思われます。

施設がいっぱいで、家族や地域で見守ることになるかも。

医療費や介護費用の増大で、どんどん家に帰されているという話も聞きます。

 

そんな時、なにかできることがあったらいいと思います。

例えば手や足をさするだけでも、筋肉を柔らかくして呼吸を楽にしてあげられるとか。

その時にはもっと勉強してでなくてはいけないでしょうけど。

呼吸器リハビリは、そんな時に参考になりそうな考え方と方法です。

 

 

家でもできること 肺での呼吸の確認

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ブランケットを丸めて

秋津のスタジオのレッスンで、グランケットを丸めて肩甲骨の下におき、仰向きで呼吸を確かめるということをしました。

肺での呼吸がしっかり確認することができます。

我が家にはヨガ用のブランケットはないので、マットを丸めてみました。

ちょっと硬いし高すぎるような気がしますが、胸を開くことができます。

呼吸も感じることができます。

ヨガブロックを上のようにおいて、胸を開くこともありますが、マットのほうが楽です。

胸を開き、腕を頭の上で肘どうしを持つようにすると、もっと気持ちよくなります。

肩のかたい私は、サボテンのポーズは右肩がつかなくてできません。

続けていったら、そのうち右肩もつくようになるかもしれません。身体を緩めるのにとても効果的なポーズだと思います。

少しずらして

マットの位置を1センチ下にずらすと、呼吸するときの感覚が違います。

少しずつ位置をずらして体の感じ方に意識を集中すると、自分の内面に旅しているようです。

「今・ここ・自分」を実感することができる、ミニ体験です。

呼吸が大切なこと

ヨガでは呼吸法を大切にして練習をします。

呼吸法に特別時間を取らないレッスンもありますが、そんな時でもポーズをとるときに呼吸してください、息を止めないでと先生から声がかかります。

年と共にいろいろな体の不調が出てきますが、肺も使わないでいるとどんどん機能が低下すると思います。

呼吸が浅くなるのです。

今では、若い人でもどんどん呼吸が浅くなっているようです。

ストレスがかかると、極端に呼吸が浅くなります。

リラックスするためには、まず深呼吸とはよくいわれます。

 

呼吸することで、それも意識して深く呼吸することで、肺を強くして日常生活の質を上げることができると思います。

人間は口からの食物と空気からエネルギーを得ているのですから。

あ、あと皮膚からも太陽のエネルギーとか得ているし、人の言葉や心からも温かいエネルギーをいただいています。

他には・・・・

森林浴では、木(気)のエネルギーを身体全体でもらうこともできますね。

他にも大切なものたくさんですが、毎日の呼吸を意識し、深くすることは家ですぐできるアンチエイジングです。

そして、終末期にも呼吸の関係してくるのを最近知りました。

呼吸リハビリというものもあるのです。

 

他人のせいにしないと、生きることが楽しい

今朝の出来事

暑い毎日が続いています。

庭の水やりの為に散水ホースを手にした途端、シャワー状態の水が飛び出して頭からずぶぬれになってしまいました。

水道の元栓は開けたままでいて、手元のレバーで放水や水の量などを調節できるようになっています。

私は使った後、水道の元栓まで止めることが多いのですが、わたしだけが使っている訳ではありません。

 

水にぬれながらも、ちょうど日差しも出てきて暑くなりそうだったので気持ちいいくらいに思いました。

今までだったら

その時思ったのですが、今までだったら思いがけない出来事(それも不愉快な経験)に遭遇したとき、自分以外の人のせいにしがちでした。

たいしたことでなくても、他の人・他の物にその原因を押し付けていたように思います。

前に使った人のせいにして、自分を責めない代わりに自分の気持ちをくさくさとさせてしまったりします。

でも、ホースを持ち上げるときレバーを握ってしまったのは私です。

元栓がどうであれ、レバーを引かなかったら水は出ません。

前に使ったのは私かも知れないのに、架空の「前に使った人」に責任転嫁してそれ以上何も考えないのが、今までの私の行動です。

 

自分の行動を考える

・散水ホースを手に取るとき、レバーを引かない

・元栓が空いている場合もあることを事前にあたまにいれておく

 

これだけのことです。ほかのだれかではなく、わたしが気をつければいいだけのことです。

 

このようなことが日常にたくさんあるのだろうと思います。

 

小さな出来事の自分の行動を、ひとつひとつをていねいに考えていくことが、大きくヨギーニに続く道になるだろうということまで考えがすすみました。

 

他人のせいにしてきたから

今まで気持ちが重くなったり、もやもやしたことの多くは、他人のせいにしてきたからかもしれないです。

自分が失敗をするように、他人も失敗をするのは当然と考えるならば、人から被害を受けたり攻撃されたと思っても許すことができるのではないでしょうか。

 

自分だってできないことを他人に求めるのは無理なんだと、納得させることができます。すぐにはそういう気持ちになれなくても、だんだんなれるのではないでしょうか?

 

何か文句を言いたくなったとき、その前に自分でもできることがあるのではないかと、一呼吸おいて自分を振り返りたいと思います。

 

腹が立つことがあった時、人を責めると、自分も相手も気分を悪くさせます。

それより、客観的に一歩引いて、大人の対応というか、一緒に感情的にならないように気をつけたいと思います。

 

そういう事態になったことは、自分のどういう行動なり言葉が招いたことなのかを考えることです。

そうすると、自分の側にもそうなる「種」があったことに気がつきます。

そうなるように、わたし「も」していたのです。

相手ばかり責めるのはおかしいです。

 

他人のせいにしていると、自分の成長も心の安心も得ることができないと思います。

 

学び続ける生き方

自分の周りで起きるすべてのことが、自分を映し出す鏡のようです。

自分がやさしくなれば、優しく応えてくれます。

 

アクシデントもより強くなるためのハードルと思うようにしましょう。

なんにしても、前に進むしかないのですから。

 

学び続けているという気持ちの持ち方で、生きることが楽しくなりそうです。