お墓問題
宗教とかを考えるとお墓の問題にも及んできます。
お正月で家族が集まって話しました。
私は散骨でいいしお墓もいらないということです。
本当にそうしてくれるかはわかりません。
友人が死んで
「お墓参りをしたい」と思いました。
お墓の前で語り合いたいという気持ちです。
そうなると、死んだ後お墓があった方がいいのかとも思ったのです。
残るもの
お墓の必要性としては、
死んだ後お墓がないとその人を偲ぶことができない、
があると思います。
でも最近気がついたのですが、
死んだ後に残したものはたくさんあります。
子供たち孫たちの存在もですが、
家族を含めて出会ってきたたくさんの人の中に、
私の存在したことは残っていると思うのです。
意識や思い出として顕在化しなくても、
その人の生き方に何らかの影響を与えていたはず。
例えばこのブログを読んだ方にも、
小さなかけらを残しているかもしれないです。
そう考えたら、お墓はやはりなくてもいいと思えるようになりました。
だから悲しまなくてもいい、そう伝えたいのです。
お釈迦様
原始仏教ではお墓とか先祖供養は語られていません。
先祖供養は中国の儒教や孝養思想などが加えられた、
中国式の仏教が日本に入ってきたからだと思います。
それに日本古来のアニミズムも融合して今の伝統仏教になったのでは。
国家や幕府を権威付け守るために利用され保護されたのも伝統仏教です。
お釈迦様は自分のお墓はつくらないよう、
自分を拝むこともしないよう遺言されたはず。
現代に生き、自然の脅威にさらされることもなく平穏に生きる人は、
絶対的な「大いなるもの」を崇拝する気持ちになりにくいです。
伝統的な習俗や考えに触れない環境で育つと、
ただ物質的に不足があるわけでもないのに感じる不安とか、
人間関係に疲れたりして生きづらさを感じる人は多いです。
お釈迦様もそういう「生きる」とは、「人間」とは、
という心の問題を痛切に感じて修行して悟りを開きました。
それを他の人にも伝えたのが僧団です。
佐々木閑先生の言う「お釈迦様の仏教」
欧米で増えている「ナイトスタンドブディスト」
最近はやりの「マインドフルネス」
が現代の人には受け入れやすいのです。
変化する仏教
お釈迦様が開かれた仏教も歴史的地理的にどんどん変化しました。
伝統離れと少子化などで、
日本の伝統仏教もこのままでは衰退の一途です。
その危機感が南嶺管長の活動を突き動かしているとも思えます。
わたしはここ数日ですが、アプリの力を借りて精神状態を調べています。
これも新しい形です。
今日はとても良い数値が出て朝から気分がいいです。