70歳過ぎて自在に生きる ほいみんの日記

断捨離から、ヨガ・インド哲学・音訳へと関心が移っています。

『春にして君を離れ』アガサ・クリスティ著 自分の中にもある怯懦と怠惰や卑怯をあぶり出される

母親として

ヒロインのジョーンは3人の子どもを育て上げた、自称(自認)良妻賢母。

だれからも後ろ指をさされない、成功した母親であり妻だと思っています。

それが砂漠で足止めをくい、何もすることのない時間と場面に置かれたとき

「素の自分」と否応なく向き合います。

 

3人の子どもはそれぞれ結婚し生計も成り立っています。

でもそれは子どもの望んだ夢を阻んだ結果だったり、

自分の望まない子どもの夢をしぶしぶ認めた結果だったりします。

 

子どもの幸せを第一に考えてきた、子どものために分別を働かせたつもり。

その結果は母親から物理的に遠くに行くこと、

心理的に距離を置くことを望むようになりました。

 

妻として

夫が家業の弁護士をやめて農場経営を望んだとき、

全力で止めます。

子どもたちの教育や生活を優先することを理由にしたのですが、

本当は自分が農場暮らしをしたくない、

夫の心からの願いよりも自分の目先の安泰を優先しただけなのです。

でも、自分の分別が夫の愚かな気の迷いを覚まさせた、

今の「成功」は自分の手柄だから感謝して欲しいと信じて疑いません。

口先では苦労をいたわっていますが、

弁護士の妻という自分の立場の方が大切。

 

自分と向き合う

ジョーンは旅の途中で女友達と遭遇します。

学生時代の友達が老けて身なりにもかまわない様子に、

自分はあまり変わっていないし服装にも気をつかっていることに優越感。

友達は若い頃は誰もが憧れる美貌でした。

大胆で自分の感情のままに冒険的な生活をして、

各地で多数の男性と関係を持ちます。

ジョーンはそれを不運で不遇とおもいますが、

彼女にとっては素晴らしい運命を思うままに楽しんでいるのです。

 

ジョーンは友達に言われます。

「あなたって、いつもコチコチの堅物だった」

「あなたじゃぁ、自分の罪のことなんか、そう長々と考えてもいられないだろうけど」

「何日も何日も自分のことばかり考えてすごしたら、自分についてどんな新しい発見をすると思う?」

 

そんな言葉からジョーンは次から次へと今までの自分の言動をたどっていくようになります。

そして、自分で気がついていなかった、というより目を背けて見ないふりをしてきた真実の姿に気がつき、家族に特に夫に謝ろうという気持ちになります。

 

でも逃げ込んでします

いったんは自分中心に家族を引っ張り回したことに気づき、

いままでと世界の見方が変わったジョーンですが、

ロンドンに戻ると、元通りの生き方になってしまいます。

夫はジョーンがいない間の開放感に別れを告げ、

また心を閉ざし諦めの生活を送ることに。

 

ジョーンにも夫にもないのは、勇気です。

リスクを取って胸がドキドキする行動をするのを諦めてしまいます。

気持ちをぶつけ合うのを諦め、真の気持ちを自分でも押し込めてしまうのです。

その方が楽だからでしょう。

波にもまれて下に沈み込むこともありません。

その代わり自分の力で進んで行く醍醐味を味わうこともできないのです。

 

巻末の解説で栗本薫さんが、

「私はこの年齢までに、いろいろな人間とかかわりあい、さまざまな現実逃避やさまざまな怯懦や怠惰や卑怯、臆病や怠慢、ずる賢さやあさましさや自己憐憫を見てきた。だが、ただひとつ最終的に私が学んだのは、「それは最終的にはその当人の責任でしかない」ということであった。

と書き、また当人にそれを教えない周囲の人についても

それに迷惑をこうむった人間が、「それに対してどう対処するか、そう生きてゆくか」を決めるのも、また当人の問題である

と書いているのは、誰もが家族や他人に責任転嫁してはいけない、

自分の意志で自分の人生を切り開くべきだということです。

 

こんな風に生きてきた部分が自分にもあるのではないかを問う、

そんな小説とも言えます。

私も娘であり母親であり妻でもあります。

こんな風になっていないか、胸に手を当てて考えたい。

それは切なくて辛いことでもあるけど、

それを逃げてはいけないとこの本が教えてくれるのです。

 

自伝

アガサ・クリスティの自伝も読みかけています。

女性の生き方についてこんなに厳しい見方をしている彼女が

どんな風に育ち、考え、書き、生きたか。

とても興味が湧いてきました。

 

自分に向き合う、禅の瞑想ともつながります。

 

どんどんおもしろくなります。

 

公園で読書はちょっと寒かったです