70歳過ぎて自在に生きる ほいみんの日記

断捨離から、ヨガ・インド哲学・音訳へと関心が移っています。

宗旨替えは難しい 神様とか魂の存在は頭で理解できないから

お墓参りについて

私がお墓参りに熱心になれないのは、そこに魂があるとは思えないからです。

そこにあるのがお骨以外の何かであると感じられません。

小さい時から何も感じていないのに、

父が亡くなって急に魂があるとは思えないのです。

にわか神道になってにわかに作った神棚にお祀りしてある紙切れが、

尊いものだと思うのは無理があります。

 

奄美地方の人

知人に奄美大島の出身の方がいます。

住むところを探していたので、都営住宅がいいと薦めました。

病死などで事故物件(?)になっていると、入りやすいのです。

ところがその知人は「とんでもない!!」と身を縮めます。

そういう部屋には住んでいた人の魂がいるから、

怖くて住めないのだそうです。

私なら平気だと思うのですが、

身についている宗教感覚は一生ついて回るのかもしれないです。

そういえば与論島の人たちももう死んだ人といつもお話ししています。

声に出してお話しするから最初驚きました。

遠く離れて暮らしている人のお誕生日をお祝いしたり、

情が深いのはそういう環境で育ったからなんでしょう。

 

お経

例えば私は、

お経を大きな声であげることができません。

訳のわからないことを「お題目」として唱えているだけと思ってしまうのです。

「お題目」という言葉は「自分で考えたことでなく言われたままに唱えている」

という意味も感じます。

理解できないことを口に出すのはよくない、と私の心が制御するのです。

そんな私ですが、この頃は小池陽人さんの動画を見て弘法大師のお称号を唱えることは

できるようになりました。

弘法大師についての知識が増えて、

具体的に自分の中で像をむすぶことができてきたからではないかしら。

 

試してはみるのですが、お経を唱えることはできません。

般若心経を覚えようと試みたことはあるのですが、

覚えきれません。

 

いくら仏教や禅の教えを学んでも、仏教徒となるのはハードルが高いです。

知識としてだけではダメで、実践しなくては意味がないと何度も読んだり聞いたりしているのに。

宗旨替えするのは難しいです。

育ってきた環境、読んできた本や出会ってきた人の影響が大きいです。

 

通ってきた道を振り返る時期になりました