60歳過ぎても進化中 ほいみんの日記

断捨離から、ヨガ・インド哲学・音訳へと関心が移っています。60歳過ぎてヨギーニをめざしています。

【管長日記】331回「願い限りなし」 自分だけでなくその先に人を救うための修行 十句観音経和讃

漢字の読み

管長日記を音読していますと、読めない漢字がたくさん出てきます。

昔の老師のお名前はともかく、四字熟語くらいは読みたいと調べます。

仏語は普通と読み方や漢字の使い方が違っている場合が良くあります。

調べついでに、心に残る言葉と共に記録します。

 

禅語に「雪を担って古井を埋む」というのがあります。 これは、「徳雲の閑古錐、幾たびか妙峰頂を下る。他の癡聖人を傭って、雪を担って共に井を埋む」という言葉がもとになっています。

ユキヲニナッテコセイヲウズム」

雪を井戸にどんどん投げ込んで、井戸を埋めようとすることですが、

以前南嶺管長の対談でこのお話が出てきました。

幼稚園の園児が自転車のカゴに桜の花びらを集める話です。

集めても花びらはカゴからどんどん落ちていく。

自転車の園児も回りの子ども達も楽しくていつまでも続ける。

無駄なことのようでも、笑顔で続ける園児の姿に幸せがあるということです。

 

 

白隠禅師のお弟子の東嶺和尚は、その著『宗門無尽灯』のなかで次のようなことを述べておられます。

原文は漢文ですが、意訳して紹介します。

修行を正しく進めてゆく道は、願いをもつことが根本である。

願いの力が深く重い者は、どんな天魔も邪魔することができないのである。

願いの力が弱いから、様々な困難なことに遭ってしまうのだ。

願いの力というのは、人々を救おうという大悲の心だ。

自分の悟りだけを求めるようでは、小さな見識にとどまってしまう。

仏道では、上求菩提下化衆生ということが常に説かれます・・・

およそ拘楼孫仏より以来、たとえ天下の智者高僧も、菩提心無きは皆悉く魔道に落つ

「シュウモンムジントウロン」

「ジョウグボダイゲケシュジョウ」

「クルソンブツ」釈迦以前に存在したとされる仏の一人

菩提心とは、もともとは菩提を求める心を言いましたが、「自未得度先度他」といって、自ら未だ得度せざるに先ず他を度すという、自分よりもまず人を救おうという心を指すようになっていったのです。

「ジミトクドセンドタ」

「人をのみ渡し渡して己が身は、岸にのぼらぬ渡し守かな」という古い和歌の心であります。

『延命十句観音和讃』のなかに、

「われをわすれて ひとのため
まごころこめて つくすこそ
つねに変わらぬ たのしみぞ
まことの己に めざめては
きよきいのちを 生きるなり」

 

和讃というのは漢語のお経をわかりやすい言葉に訳したもので、

この和讃は南嶺管長がお作りになったものじゃないかしら。

意味がわかる言葉を唱えたほうが修行僧にはわかりやすいはずと、

円覚寺では修行の前に和讃を毎日唱えているとお話しになっていました。

 

禅宗では人の苦しみを助ける観音様のような人になるために修行するのです。

自分の為の修行ではないのです。

人を救うというのが、「限りない願い」なのです。

 

今までの動画の中で全文を拝聴したことがあります。

どこかにあるはず。

ありました。

www.youtube.com

 

 延命十句観音和讃

大慈大悲の 観世音

生きとし生けるものみなの

苦しみ悩みことごとく

すくいたまえと いのるなり

苦しみのぞき もろともに

しあわせいのる こころこそ

われらまことの こころにて

いのちあるもの みなすべて

うまれながらに そなえたり

ほとけの慈悲の 中にいて

むさぼりいかり おろかにも

ほとけのこころ 見失い

さまようことぞ あわれなる

われら今ここ みほとけの

みおしえにあう さいわいぞ

おしえを学ぶ 仲間こそ

この世を生きる たからなり

われを忘れて ひとのため

まごころこめて つくすこそ

つねに変わらぬ たのしみぞ

まことのおのれに 目覚めては

清きいのちを生きるなり

朝に夕べに 観音の

みこころいつも 念ずなり

一念一念 なにしても

まごころよりは おこすなり

一念一念 観音の

慈悲のこころを 離れざり

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お経の中身ってこういうことだったんですね。

これならわかりやすいけど、ありがたみが薄いのかしらね。

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