円覚寺管長日記
心が痛くなりました。
怨みを忘れたつもりでも、50年たっても心の奥底に残っていたということです。
第81回「怨みなき」2021/3/28【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
父親を2.26事件で殺された渡辺さんが、反乱軍側の家族が負った苦しみを知ったとき、
やっと怨みを消すことができたそうです。
私の怨み
50年も前の怨みを忘れられずにいます。
友人に裏切られたと思いました。
自分が被害者だと思い、周りの友達にそのことを涙ながらに訴えていました。
生きるのが辛くて崖をさまよい歩いたこともあります。
きっとその友人の耳にも達したことでしょう。
その人に会ったら「人非人」「ひとでなし」と罵倒しようと妄想しました。
いざ顔を合わせると、へらへらとあたりさわりのないあいさつをするんですけどね。
被害者の方が強いかも
私はずるいのかもしれないです。
被害者の顔をして他人の同情を買い、わたしは悪くないと思い続けてきました。
自分の物語に酔って、どんどん妄想を広げていきました。
もしわたしがその時、軽はずみにも自死したら、
その友人は一生「人を死なせた」という思いを背負うことになったかも。
その場合、私は加害者と言えるのではないでしょうか。
私が撒き散らした噂で、その人がどんなにか傷ついたかもしれません。
私もまた加害者だったのです。
若く傷つきやすかったときの心の傷は深く、
今でも許せないのです。
本当に悪かったのはその人だったのかどうか、
確かめる勇気がまだありません。
そのことを考えるだけで心が痛むのです。
説明のできないこと=不条理です。
自分を被害者側において人を責める、私は公正でなく自分勝手です。
そんな自分だとわかってきたから、他の人を責めることはできないです、
そう考え、人を責めない心を育てようと思っています。
管長日記は、自分の心のかたまりを考えてみる機会になりました。
ほぐすのが難しく、凝り固まった心を見つけました。
こんなふうに自分の心に出会うから、
ブログを書くことは「カキタヨガ」です。
春のエネルギーが待ち構えているようです。