「変化する私が好き
松本侑子さんのエッセイ集『わたしが好き』
著者の20代後半の作品。
新進作家としての地位(?)を固め、各方面から注目されます。
ミスコンテストの審査員として呼ばれて、美貌故に過去の優勝者と間違えらた頃です。
『赤毛のアン』の翻訳も始めています。
良妻賢母の呪縛
結婚式に招かれることも多く、
結婚とか出産の話題が身の回りで増え、封建的・男尊女卑的な考えに異論を唱えます。
今から30年近く前の話ですが、根本的には余り変わっていません。
デビュー作『拒食症の明けない夜明け』では、思春期の少女を扱いました。
母親との関係だけを取り上げたのは失敗だったと悔いています。
母親だけに責任があるかのような書き方をしたからです。
父親が子育てに無関係無責任であっていいはずがありません。
そういう見方は、その頃の医学界のそして世の中の常識だったのです。
幼女期から性的対象とみなされる女は、少女期になると、女の性のモノ化がよりいっそう、現実問題として身にせまる。そして現在も、今後も、社会的人間としての有効性を喪失したまま、必要以上に良妻賢母としての将来を意識させられ閉じ込められている。それを自覚した少女の無力感が、彼女を摂食障害という抵抗に向かわせる。
摂食障害という抵抗をしなかった少女達も、現実社会に対して無力感を持つことには変わりないのです。
少女達は父親と対等でなく、卑屈に生きていると見える母親達の姿を見て絶望的になるのです。
完治とは
当時医学界では、拒食症の少女達を治療していた医師は
「生理が戻り、結婚して出産すること」を完治とする風潮があったそうです。
親への不信感を抱く少女に、結婚を勧め親になれないと警告する無神経さを、松本さんは嘆きます。
結婚せず生き生きと働く女性では「完治」とみなされないのは、現代ではどうなっているのでしょうか。
拒食症が現在は少なくなっているかどうかわかりません。
でも、女性が生きづらい状況は解消されたとはいえません。
摂食障害の少女に求められる回復像は、母親予備軍としての健康な母体と、家庭だけに向いた精神の二つを備えた古い女性像
このような古い女性像は、少女の母親をも苦しめます。
娘への愛情が足りないから、家庭が温かくないからだと責められるからです。
どうして母親だけが責められるのでしょう。
家庭は父親も同じように責任があるはずなのに。
そして女性は
子供を産んで育てることだけに価値を持たされた女性は、子供が巣立ち母親の役目を終えた後、長い長い空虚な時間を過ごすことになります。
女性の鬱やアルコール依存の問題の一因になっているのではと考え、
松本さんはそれを
「社会的有効感の喪失」と書いています。
女性は子供を産む道具でもないし、人の世話をするための自分を犠牲にする存在でもないです。
自分を大切にし、大切に思われる、相互の信頼が大切です。
長くなった老後、どんな生き方をしてきたか考える時間もたっぷりあります。