目撃者とか傍観者
*ヨガセンターにて オランダからきたチューリップ
ヨガの哲学では、目撃者とか傍観者の立場に身を置きなさいと言われます。
saksin :サークシン 承認・目撃者・傍観者
喜び悲しみ幸福不幸など個人の到達するすべてを知覚するけど、すべてはマーヤー(maya)の戯れだと知っている
雑踏で
駅のロータリーでバスを待っていた時の事です。
ちょっと戸惑っていたら人にぶつかりました。
その時中年の労務者風の男の人が「ババアうろうろして・・」とつぶやくのが耳に入りました。
はっと思い、それが私に向けられてのだと思ったとたん、気持ちが落ち込みました。
でもよく考えてみたら ババアと言われても仕方のない年齢です 。
同年代の女流作家が自らババアと名乗ることもあります。
私にそれを言った人は、私のような年代の女性を呼ぶ他の語彙をもっていないのでしょう。
そんなふうに考えていたら 必要以上に落ち込む必要はないと思えて気が楽になりました。
それに、よく自分の行動を振り返ってみたら、他のことに気を取られて周囲への気配りが足りなかったのです。
もう少し考えたら、バスの順番をその男性に取られないようにちょっと強引な動き方をした私の心のさもしさもありました。
そういう私だったから、こういう言葉をかけられても仕方ないとも思えます。
なるほど、これからは気をつけよう、私に気付かせてくれてありがとうでもあるのね。
気分が落ち込むかどうかでなく、それを自分がどうとらえるかを考えていったのです。
他人の言葉に傷つくのは感情で、心の中に長く引きずってしまいがちです。
自分の何がそうさせたか、目撃者のようにみたら理性的に対応できます。
納得できて心も楽になります。
身内に病人がいると
配偶者の病気に悩んでいる人がいました。容態の一進一退に気をもんでいる様子です。
私は 「心を乱すことなく目撃者のようにしていたらいいんではないのか」と話しました。
冷たい言葉に思われたかもしれません。
周囲の人が気を揉んでも、病状が変わるわけではありません。
ただ病状の変化に対応して、気持ちと対応を変化させていけばいいのではないでしょうか。
大概が必要以上に心配しすぎます。私もそうなりがちです。
無用な心配はしないですめば、心はもっと楽になります。
身体も心もこの世の借り物意識
インド哲学では身体も心もそれが自分自身ではありません。
自分自身の本体とは 魂とも言い換えられる、身体や心とは別のものです。
たまたまこの身体を得てこの心を持って、 その両方を コントロールしながら 様々な経験を積んで 生きていくのです。
病を得た身体をどう見るか、病の身体をどう心で感じるか、それを本体である魂は傍観者のような目撃者のような立場で眺め、意思と智慧とでコントロールします。
身体のコントロールはアサナでの調整や免疫力の向上
心のコントロールは呼吸法とか瞑想
今のところの私の認識。
メモのように書いてみて、考えを深めてみます。