『庭仕事の愉しみ』
今から約2000年前にパタリジャンがまとめたとされる「ヨガスートラ」に、日常生活の心構えである8段階の教えが体系化されています。
その中の日常生活で実践すべき5つの行いの一番に挙げられているのが、シャウチャ(Saucha)です。清浄と訳され、自分の身体と心をいつもきれいな状態に保つこと。
我が家の草だらけで、枯れたり手入れの行き届かない植木鉢の放置されている庭がいつも気になっています。家に出入りするたびに心が痛むのです。
一番苦手な家事の庭仕事なのですが、何とかしたいといつも思っています。
(思っているだけですぐ行動しない。他人を非難できないなぁ)
精神論から入るのが好きな私は、ヘッセの『庭仕事の愉しみ』という本を持っていて、庭仕事がどんなに精神的に豊かなものかがそこに書いてるのではと期待しています。
何度目かに本を取り上げてパラパラとあとがきなどを読んでいたら、『ペーター・カーメンチント』という本の名前が出てきて、胸がキュンとなりました。
若いころに読んで感動したことが、急に思い出されたのです。
20代のはじめのころ、ヘッセの本のいくつかは、私にとってバイブルのようでした。
『ペーター・カーメンチント』はあらすじも登場人物も覚えていないのですが、
大事な本
という記憶だけです。
『郷愁 ペーターカーメンチント』
早速kindleで読んでみました。
一気に読み終えました。
ヘッセはこの作品の公表で作家として名声を確立したようです。
まだ20代での作品。
面白くて、一気に読み終えました。
途中で声をあげて泣きたくなったところがありました。
でも、若いころと今と、心に響くところが違いました。
たとえば、
不可解な神は愛されることのない孤独者の生涯を私にあてがっておきながら、愛に対する燃えるような郷愁を、なぜ私の心につぎこんだのであろう
10代から20代にかけて、夢見る夢子だった私は片思いばかりで、悲劇のヒロイン気分に浸っていました。
私の生活にはどういう意味があったろうか。なんのために、こうも多くの喜びと苦しみが私の上を越えて行ったのだろうか。今日なお渇えをいやされない人間だとしたら、私はなにゆえ真実なものと美しいものを渇望してきたのだろう
本をたくさん読んでいたけど、現実に手につかめる物はなく無力感と虚無感で人生を嘆いていました。
今読むと、その時の気持ちや、この文章をノートの書き留めておいたことも思い出しました。
なつかしくて、若く初々しい自分をほほえましくいとおしく思います。
今回読んで一番心にひびいた箇所は
なんのために私は聖者の生活を研究し、そのみごとな愛の歌を暗記したり、ウンブリアの丘にその足跡を探ったりしたのだろう?たよりない哀れな人がああしてひとり苦しんでいなければならないとしたら。私はそれを承知し、彼を慰めてやることができたのに。
病弱な家族の世話を負担に重い、自分たちだけで楽しい時間を過ごしているときに、主人公に湧いてきた「純粋な愛」の気持ちです。
私も、向上心とかより良き人生とかを考えているとしながらも、身近な人に冷たくしているのではないだろうかと、自分を振り返ってみました。
何のための読書、そして何のためのヨガや修練、心の向上なのかを考えてみました。
現実生活ではなく、妄想の中でだけ「善き行い、親切、やさしさ」を振り回しているのではないかと、考えさせられました。
インド哲学との関係
ヘッセがいつからインド哲学を研究していたかはよく知りません。後期の作品の「シッダルタ」のあとがきに、20年くらいインド哲学を学んでいるとありましたが、この初期の作品でも、インド哲学に通じる考え方をしていると思います。
これを考えるだけで、一生の課題になりそうな大きな問題です。
大切なものは少し
ヘッセの小説のいくつかは、今から思えば今の私の考え方に大きな影響を与え、それがヨガとも結びついていると言えます。
心の底に流れていた、自分の求めているものが一つにつながっていたのが不思議な気持ちです。
大切なものは少しでいいと、また思いました。
ヘッセの作品のいくつかをまた読み直そうと思います。
それをインド哲学を少し学び始めた今の視点、夢中になって読んでから40年たって経験を積んでからの視点で読み直してみたいです。
本もたくさんなくていいですね。
何度も読みなおす、大切な本、精神のバックボーンになっている本、それがいくつかあることは幸せなことだと思います。