70歳過ぎて自在に生きる ほいみんの日記

断捨離から、ヨガ・インド哲学・音訳へと関心が移っています。

怒りをコントロールするむつかしさ

バガヴァッド・ギーターの読書会があるので、その宿題。

「気になる節」「刺さった節」ギーターの1節を取り出して、その理由を書く。

今回は【怒り】について書いてみた。

日常のトラブルでどんなに自分が怒りを押さえられず、振り回されているか。

ギーターは、最初読んだときは日本の「古事記」みたいな昔話だと思ったけど、何度読んでも味がある。「するめ」みたいに、読むたびに深く心にしみてくる。

今回もできていないことに悲しくもなるのだけど、修行中なんだからしかたないよねぇ。

 

 

ギーター 第5章 26節

上村勝彦版

欲望と怒りを離れ、心を制御し自己(アートマン)を知った修行者たちにとってはブラフマンにおける涅槃は近くにある。

 

田中版

怒りと物欲、肉欲を放下した人びと

自己の本性を知って修行にいそしみ

真我実現に向かって常に努力する人々は

やがて梵我一如の境地に達する

 【怒りから離れられない】私の経験

 車のディーラーで、お店の女性の誘導でバックしていたら事故を起こした。

朝から店の不手際に腹を立てていた。狭い壁際駐車は普段していないので不安があった。ちょっと無理だから切り返しをしようとしたのに誘導の女性が「大丈夫。大丈夫で~す。」と明るく大きな声でいうのでそのままバックしたらガシャという音がした。「大丈夫じゃないでしょう」と降りていったら、誘導していた女の人が倒れていた。足を押さえて痛がっている。

 

そこで私が謝罪しなかったことで、そのあとの店側の対応がひどかった。

心配しているのに何も説明してくれないので、どうなっているんですかと聞いても「最初に謝るべきじゃないですか」と言われ、こちらの事情は何も聞いてくれない。

 

ガシャっていう音が骨折だったかもしれないと思ったので、これは大変だと思ったけど、実際は私の車が壁にぶつかった音だった。タイヤで足を踏んだのかと思ったら、壁と車の間に挟まっての打撲。

骨折で何か月もかかったらどうしようと思ったけど、断なる打撲だったことで本当にホッとした。それなのに、今度は自分は悪くなくて相手の対応が悪いことばかりが心に浮かんできてそれに苦しめられてしまう。

店長が私を責めたのも、最初に私が謝らなかったのがいけないのだと思おうと思うのだけど、どうしても納得がいかない。

 

一方では、痛がる本人に謝りもせず「ガシャっていったからお医者さんに行ったほうがいいですよ。」と冷たく言い放った私の態度も、客観的に見たら「冷酷非常識な人」。

そういう自分を見つけてしまったことでも、自分の心が苛まれる。

それまでの店の度重なる不手際への怒りがあって、不注意な運転と非人間的な行動になったと思う。

私の抑えきれなかった怒りが今回のトラブルの原因。

 

骨折でなかったし後遺症もないだろうから、それはよかった。

保険屋さんがあとは全部面倒見てくれる。

けがをした当人ともあとから電話で話して、明るい声で私の車の心配をしてくれて対応が良かった。

 

こんなふうに、最大の心配事がなくなっても、心は平安にならない。

やっぱり誘導が悪くて車をぶつけちゃったんじゃないと腹が立ってくる。

店長の私を咎めた態度と言葉が頭の中をよぎる。

この心の狭さ。

そしておさまらない怒りはなんなんだろう。

心が晴れず、思い出してはいやな気分になる。

 

怒りと苦しみを自分で探して作り出しているようだ。

 

こういう風にならないように、インド哲学を学んでいるはずなのに。

 

ギーターを読み返して、『怒り』のところが目についた。

 

最初上村版を読んで、怒りから離れればいいのかと思った。怒りをコントロールしようとしてもしきれないと悩んだが、離れればいいのだ、というより離れてしまったほうがいいのかもしれない。怒らないと決めてしまうこと。この方法はどうだろう。

 

そこで田中版ではどう書いてあるか見てみたら、離れるという言葉の代わりに放下とある。これも手放すということだ。怒りをどうしようと思い悩むより、放り投げるように離れてしまえたら、心の平和がくるだろう。

 

でもそこで断捨離を思い出した。やましたひでこさんの断捨離セミナーでくりかえし出てくる。

断行・捨行・と進んで行って最後に離の境地になって心安らかにとびたてるってことだった。

離は一番難しい最後の行とされている。

修行にいそしみ、常に努力をするってことに尽きるのかな。

佐保田先生は、子供のころ父親に叱られて育ったから、学生には怒らないようにしたという。そして、ヨガを始めてからは、怒らない人になったのだと。

 

怒らないのではなく怒れなくなるのは確かです。そういう気持ちが出てこない人は、出てくるまでやってください。(88歳を生きる)

 腹が立たなくなるまでヨガをしなさい。

道は遠くても、道は指し示されている。

 

 

追記

読書会で、「こういう風にならないようにインド哲学を学んでいるのに」という私の発言にたいして、「学ぶことに捉われている」というようなことを言われました。

その時は自己開示した興奮の後遺症みたいに頭がぼーっとしてよくわからなかったです。

何を学んでいるのだろうかと思うけど、インド哲学の考え方に心が救われているのは確かです。

怒りの種を持っていたのは私。その種を発芽させてしまったのも私です。

店側のなにかではなく、私の問題として考えるのがインド哲学ということかしら・・・。まだよくわかりません。