70歳過ぎて自在に生きる ほいみんの日記

断捨離から、ヨガ・インド哲学・音訳へと関心が移っています。

ブログを書くことは、駅前で大声の自己PRしていることと同じ

女子大の学生寮で同じ部屋だった後輩から40年ぶりに電話をもらった。


彼女は断捨離の本やテレビの録画で断捨離を自分なりに実践中とのこと。

部屋が片付いていないなあと思うたびに、断捨離関係の本を読んだりテレビ番組を見直すのだという。あるテレビ番組で、断捨離提唱者のやましたひでこさんが私の家に来て断捨離の指南をしてくれる様子が出てくる。

もう何年も前の番組なのに、彼女は録画してあって何度も見ているのだそうだ。

そして、一方的に何度も見ているのが気になって(気が引けてかな)電話してくれた。

あれこれ昔話をして、懐かしかった。

彼女は私がそのころ友達と作っていた同人誌にちょっと参加してくれたことがある。
私は小説みたいなものとか、高野悦子さんの「二十歳の原点」に触発されたようなエチュードをその本に載せていた。

今から思えば、創作とは言えない作文だったけど、物語を書くことって難しいと思い知らされて、以後小説を書くことはあきらめた。

彼女に「今も何か書いているの?」と尋ねてみた。書いてはいないという返事は予想した通り。若いころとみんな違っている。

書き続けている人のほうが少ないだろう。
わたしだって、ちらちらブログを書き出したのはここ数年のこと。

ネットはもっぱら読む専門で、ワープロソフトよりも表計算ソフトをあれこれ工夫するほうが好きだった。

 

それなのに私は、自分のことを説明するとき「私ってあの頃とあまり変わっていないみたい。今もブログとか書いているし。」と答えた。ちょっと見栄を張って嘘ついちゃった。

 

若いころ(学生のこと)、自分の経験や考えていること、気持ちはとっても価値のあるものだと思い、それを形にしたかった。

他人に見せるためではなく、自分だけの日記でも友達との交換日記でもよかった。

今、ブログを書いているのはどういうことだろう。

誰が読むかわからない、だれでもコンタクトできる場所に文章をかくのは、

駅前で大声で自己PRしているのと同じ。

それでも、書くのはアウトプットが修行だと思うから。

インプットしたものをアウトプットしていくプロセスで、自分の頭で考えることができる。

自分の思考のプロセスを文章で残すことで、あとからも検証できる。

自分の頭で考えることの練習。

ヨガで身体を動かすのも、自分の身体で感じて学ぶため。

うちこさんも、日記を書くのお勧めよって書いてあったなぁ。

リキタヨガっていうらしい。

 

最初からブログを書くのが上手になるわけではない。

こんなの公表に値しないと思ってしまっては、書き続けることはできない。

よくできた文章でなくても書き続けていくことにしたい。

 

突然電話をくれた彼女のように、ひっそり私に気が付いて読んでいる人のことを頭に入れて、誰に読まれても構わないと思えるようなブログにしていきたい。

 

なんだか、決意表明の連続みたいな文章だこと。

○○したい。

○○しようと思う。

 

ってばかりの文章でなく、

 

○○と考えた。

○○ということがわかった。

 

っていうような文章にしたいな。