思い違いというか記憶違いというものは、かなりあるということが分かった。
夫の転勤の時の記念品で、大事に思っていると思っていたコーヒーカップを、夫は忘れていた。処分してもいいものだったのに、飾ってあった。でも、もしかしたら夫が大切に思っているわけでもないのを知っていたのかもしれない。私が、新品だし捨てるのはもったいないと思って取っておいたのかもしれないと考えるようになった。捨てない理由を、自分ではなく夫のせいにして自分の免罪符にしていたのかも。夫が大事に思っていないことを、わざと忘れていたのかも。
人間の行動と、その奥にある心理と言うものは本当におもしろいものだ。
夫が記念品として大事にしていた物は、どんぶりだった。
単身赴任中、野菜をたくさん取れるようにと大きなどんぶりを「益子陶器祭り」で一緒に買ったというのだが、私にはまったく記憶がなかった。
そのくらい、私にはどうでもいいことだったのかな。
あと、品物が古びてもう寿命かなって思っているとき、私の言葉が処分する後押しになっているのはありがたいと思っているという。私に捨てなさいと言われるのが、強迫観念のようになっているかと思っていたから、この言葉は意外だった。ただ、その寿命とか古びているとかの基準の違いを認めないと、険悪な状態になってしまう。基準が違っていることを前提にして、その違いを俯瞰する立ち位置に立ってみる、それこそがセミナーで学んだことだった。
知ったからには、行動するのみ。