70歳過ぎて自在に生きる ほいみんの日記

断捨離から、ヨガ・インド哲学・音訳へと関心が移っています。

涙がとまらない デトックス

あわてないはずが

あわててパニックになってしまうところが私の弱点です。

そこは、あわてないと呪文のように頭の中で繰り返すことで、クリアしていくつもりでした。

でも、そんなはずではないという事態が次から次へとおこると、私の許容量を超えてしまうようです。

 

今日はそんな事態になりました。

 

用事があってそれを済ませてから、車でヨガセンターに向かいました。

時間の余裕を見て出発したのですが、用事で手間取り、雨降りのためひどい渋滞にあい、いつものセンター近くの駐車場は満員で入れません。

 

頭の中はいろいろな思いでパニックです。

 

涙が止まらない

家に帰るとしても渋滞に巻きこまれるだけだと思い、空いている駐車場を探して車を止めてもう練習が始まっているセンターに急ぎました。

 

あわてている様子に、先生の指示はスプタ・ヴィーラアサナとスプタ・バッダ・コーナアサナをするようにということでした。

そのとき、車の鍵をかけたかどうか不安になりました。

 

たぶん大丈夫だろうと思いましたが、不安のままで練習を続けるのはやめて、もう一度車まで戻ると、やはり施錠してありませんでした。

 

センターに戻りもう一度スプタ・バッダ・コーナアサナをしながら、涙があふれてきました。

 

あわてて参加したため、靴を下駄箱に入れてなかったことも注意されました。

この前の練習後の掃除では、バケツの水をひっくり返してしまいました。

こんなに頑張っているのにへまをしてしまう、という悲しい気持ちなのでしょうか。

 

でも涙を流すのは気持ちが良かったのです。

いつも泣くのをがまんしていたのが、解放されたような気持ちです。

普通の練習に戻るよりも、泣き続けていたいと思いました。

 

こんなにがまんしていたのか、無理をしていたのか、考えました。

 

デトックスですと説明

涙を流すわたしに先生が戸惑っているのではないかと、「これはデトックスですから、このまま涙を流させてください」と説明している私は、他人に気を使っているし、自分の弱さを出さないように気を張っています。

 

いい人になろうとしているのでは、とも感じます。

でも、素直になっているな、とも感じています。

 

車の施錠が気になった時も、そのままにしないで不安解消に行動したことは、自分の感情に素直な行動です。以前にはなかったいさぎ良さを感じました。

リラックスのポーズを続けたいと言えたのも、自分をごまかさないで素直だなぁと思いました。

 

がまんしていたのか

何にがまんをしていたのか、考えてみました。

ヨガをしているのだから、家族や友人にいつも優しく親切にと思っていたのに無理があったのかしら。

私が腹をたてたり咎めることをやめて、平和で穏やかだと思っていますが、ひとりがまんをして、こころにうっぷんをためていたのかしら?

 

報いを期待することなくすべきことを行え

というギーターの言葉のように行動しようとしているのですが。

まだ人間ができていないのに、高い人間性を求めて行動するから無理が出るのかも。

 

まだわかりません。

 

気持ちよさを許す

今日の練習は、最後まで他の人とは別メニューをお願いしました。

不安とか悲しみを取り除くアサナをたくさん教えていただきました。

 

ウバヴィシュタ・コーナアサナも壁のほうを向いてします。

(窓とかほかの人を見るのではなく)

ベンチを使ったセツバンダアサナで胸を開いていきます。

 

ひとつひとつのアサナを時間をかけてゆっくり味わいました。

スプタ・バッダ・コーナアサナは10分ほどして、気持ちを静めることができました。

 

優等生ぶった私なら、落ちついたところでみなと同じ練習に参加しますと言ったでしょう。

 

今日の私は自分の気持ちの動揺を落ち着かせるために、自分に必要なことに貪欲になりました。

気持ちよさを許します。

 

反省

許してばかりではありません。

反省もしました。

前のめりになっている心の姿勢です。

 

身体の姿勢も、私は顔や太ももが前に出がちです。

顔が出るのは、情報を取りに行こうとする ← うちこさん

太ももがでるのは、自己主張が強い  ← 純子先生

 

後ろ側を感じましょう、内側の世界も大切ですと何度も言われます。

 

練習に遅れてしまう事ばかりを心配して、一つ一つの行動に気持ちが入っていません。

何を恐れていたのでしょう。

 

練習に遅れてしまうのも、不可抗力が重なったのだから

人知を超える出来事には頭を下げるしかない、というインド哲学の教えを思い出して心を静めて受け入れたらよかったのです。

 

まだまだ修行は続きます。