一気には読めなかった
どんな内容か知らずに手に取ったので、最初の文体に驚きました。
幼児の知能しか持っていない32歳の男性が書いたレポートなのです。
たくさんの平仮名と間違った漢字で、しゃべりことばをそのまま文字に起こしてあります。
句点もなく、意味が分からず読みにくいと思いました。
これがずっと続くなら、無理だと思い、パラパラ飛ばし読みをしてみました。
もっと字を読んだり書いたりすることができれば、家族や友達と仲良しになれると思う主人公が、脳の実験的手術の結果どんどん知能が向上していきます。
数か月で天才級になり、今までのことの感じ方も変わってくる内面をレポートに書き続けていきます。
自分の想像力が試される
主人公は知能的に幼児の状態から、天才級まで変化していきます。
その時々に感じ考えたことを、レポートしていくのがこの小説の内容です。
読んで私が感じたのは、自分の想像力のなさです。
私がわかるのは、私自身の程度でしかないということです。
物事が理解できない、やろうと思っても失敗してしまう、覚えたつもりでもすぐわすれてしまう、そういうもろもろを、自分軸の価値判断でしか見ていないことに気がつきました。
できるひとは、すごいなと思います。でも、できない人にはその心に寄り添い、できなくてもいいよと優しい気持ちになっているとは言えないということです。
自分だってできないことがあり、以前はできなかったし、これからできなくなるかもしれない、そう言う事を想像できない私でした。
そう、今の自分が基準じゃない、できないこと、できること、丸ごと認める心の太さみたいなものがあるといいです。
これって、ギーターで出てくる「二元論を超える」につながる考え方です。
善悪、勝ち負け、それが同じように見えるってことにつながります。
相手の立場に立つという想像力が豊かにあると、そういう心境に近づけるかも。
存在していていい
一番のメッセージは、「どんな人でも、存在していていい」ということだと感じました。
主人公が、普通並みの知能を持たないころをまるで人間として存在していなかったかのように言われて、強く抗議します。
知能が低かったり、幼かったりしても、人にやさしくされたらうれしいし、自分が他人に受け入れられ尊重されたらうれしい。自分が他人の役に立てたと感じることも喜び。
そう、喜んだり悲しんだりそれぞれが一人前で尊重されるべきだということです。
丁度映画の『この世界に片隅に』をみたばかりだったから、これがとても胸に響きました。
映画の中でも、「この世界の片隅に私を見つけてくれてありがとう」というフレーズがあります。
世界の片隅に、ひとりひとりが自分の生を紡いでいきます。
そのひとりひとりが、それぞれ尊重される権利があるのだと思いました。
安心していい
存在が尊重されるとは、安心できることです。
不安や恐れが、人を不幸にします。
そこにいてもいいよ、丸ごと認めるよ、とされたとき人間は安心して生きていくことができるのでしょう。
漠とした不安に心を乱されることが多い私です。
でも、その前に
私は人に不安を与えていないだろうか、と考えてみます。
安心していいよ、そこにいていいよ、という態度と言葉かけをしたいものです。
他人を変えようとしない
そのままでいいよ、ということは相手を変えようとしないことです。
変えようとするのは、今の状態をよくないと判断しているのだと相手に思わせ、不安とか時によっては怒りさえ起こさせてしまいます。
いままでの対人関係の失敗はこの辺に理由がありそうです。
あるがまま、なるようになって
他人を変えようと思わないことと、事態を変えようと思わないこと、その両方を心がけていこうと思います。
自分がジタバタしても事態が変わらないのだとしたら、
あるがまま
なるようになる
そんなふうにしたほうが、自分の心が楽になります。
物語の主人公は、悲劇的な(?)将来を自覚してから、苦悩の末になすがままに運命を受け入れていきます。
人生には抗えない山や谷があります。
私たちはその場その場で、かけがえのない存在として生き続けるのですが、自分を大事にすると同時に他人も大事にしたいと思います。
『アルジャーノンに花束を』の最後で主人公は「僕をかわいそーとおもわないで」とかきます。
知能が低くても高くても、身体機能が高くても低くても、美しくても醜くても、その他いろいろなことがあってもなくても、「かわいそーな存在」にならない世界がいい世界だと思います。