『空海』 高村薫著
これも図書館で大人気になっていて、やっと手元に届きました。
実は内容を知らないままに、空海関係だからとリクエストしてみたのですが、
思っていたのと違っていました。
伝記的な小説・物語だと持っていたのですが、日本人の宗教感覚を検証するために、空海と密教を軸にして探っていくというようなものでした。
高村さんはとても理性的・中性的な作家さんだと思っていました。
その高村さんが、自信が被災した阪神淡路大震災で
いかなる信心にも無縁だった人間が突然、仏を想ったのである。・・・長らく近代理性だけで生きてきた人間が、人間の意思を超えたもの、言葉で言い当てることのできないものに真に直面し、そのことを身体に刻んだのだ。
阪神間では、いまも犠牲者への祈りが絶えないことに、日本人の国民性をみます。
日本人は誰に教えられずとも、見ず知らずの死者たちと自身を一続きのものとして捉え、死者たちの冥福と自身の家族の安寧を自然に重ね合わせて祈ることができる。
その後の東日本大震災のあと、被災地ではもっと深い祈りに満ちているだろうと訪ねていくと、お大師さんも菩薩も如来も並んで存在していました。先祖と自分たちに安寧をもたらしてくれる多くの神様・仏様・ご先祖様として、暮らしの中で手を合わせ祈られているというのです。
東北の基層かも知れない民衆の祈りがそこにあるのです。
宗教については、私も以前の高村さんのような意識です。
高村さんは、21世紀を生きる一日本人として空海を訪ねて日本各地を巡る旅に出ます。
神秘体験をしたかどうか
高村さんは空海が神秘体験したことに目をつけ、神秘体験をしたことで神仏と一体化し民衆に拝まれる人になるのも当然だと考えます。それが現在のオウム真理教の信者にも当てはまるというのです。
私は神秘体験をしたことがないので、神秘体験というだけで胡散臭く思っていました。
空海とかの話は、自分とは関係のない別世界のことのようでした。でも、同じ人間なのですよね。
高村さんは元オウム信者に取材しています。
三人の共通点は、いわゆる変性意識状態になりやすい生来の体質とヨーガの特殊な呼吸法があわさることによって、比較的簡単に神秘体験を得たことだ・・・・エネルギーの塊が腹から頭頂部に突き抜けたり、光の爆発があったり、幽体離脱をしたり。オウムではそんな神秘体験を重ねることで修行が深まり、実際に三昧に入ってこころが鎮まるところまで達するものもいたが、残念ながらオウムにはその三昧を正しく言語化する意思も能力もなかった。
同じように神秘体験した空海との違いは
自身の体験を言語化し、それを以て衆生を救済せんとする宗教者としての強固な意思の有無だけ
オウム真理教の信者は、
まじめで感受性がゆたかだったから、盲信してしまったのかもしれません。
私もそうなった可能性があります。
私がではなく、だれでもその芽を持っているというのがインド哲学の思想です。
私がもし神秘体験をしたら、どうなってしまうのかと考えました。
怖いです。神秘体験しなくてよかったと思いました。
古典的(?)ヨガではグルのもとでの修行が勧められます。神秘体験につながるような修行の場合はとくにそうです。
そのグルが、おかしな人だったのがオウム真理教の不幸なんだっていえば簡単なのですが、見極めることって難しいと思います。
空海のことでも、なんだか理解できないけど、エイヤって飛び込んで信じてしまうのではないでしょうか。
お経の内容や哲学まで理解して、信者になるのではないと思います。
空海は神秘体験を言語化した
ということは、他の人にわからせようとしたのですよね。
宗教的確信は、論理を超越する。信心に無縁の人間が宗教者の著作に触れるときに感じる違和感がそれである。空海の、言葉への並外れた執着と独創的は言語感覚は、同時代のほかの仏教者には見られないものである。いわば言葉で世界を言い表すというより、言語で世界を強引に創造してしまうと言おうか。誰も経験したことのない密教の世界が、文字通り空海の言葉で開かれるのである。
柳澤圭子さん『般若心経』
この本を読んでいて柳澤佳子さんのことを思い出しました。
難病に長年苦しんだ生物学者の彼女が、神秘体験をしたことを本に書いています。
そして、彼女の感性でもって『般若心経』を超訳しているのです。
あんなに理性的な科学者が、と驚くとともにいつまでも腑に落ちないままでした。
わたしには神秘体験がないから、まだわかりません。
理解を超えるもの
天災など理解を超えるものに遭遇したとき、祈りが必要とされます。
空海を特別な存在にしていたのは、だれにも真似のできない身体体験の深さと、そこからくる絶対的な宗教的確信、そして修法での圧倒的な加持祈祷の力であり、人々が崇拝したのもそういう特別の験力をもつ密教者空海だった。
理解を超えるものの象徴としての弘法大師になってしまったともいえます。
大乗仏教における法華経の厚みは圧倒的であるが、その細部を不問に付して一気に飲み込むがごとき密教の教えは、論理からの跳躍を求めるゆえに、論理の脆弱性を免れえない。論理を超越したものは論理によって批判されることもない代わりに、大きな変化や革新からは孤絶するのである。
怖れと不安にさいなまれた時の貴人たちに空海は受け入れられけど、死後はその偉業も割と早く忘れられたというのは意外でした。
その後の空海神格化の歴史などを高村さんは丁寧に書いています。
仏教も空海も、その時代の民衆なり権力者の要求をかなえるために変質していくもののようです。
空海を後の人が神格化・偶像化していき、高野山は真言密教の道場というより、死後の安寧を約束する霊場となっていくのです。
教団の意地と経営のため、弘法大師というおくり名をもらうために「再三朝廷に奏請」したとはしりませんでした。
だから高野山に戦国武将から財界人まで、多くの有名無名の人の墓碑があるのだと納得できました。
空海は弘法大師として、たくさんの奇跡を起こし救ってくれる人として信仰の対象となって全国の民衆にも広まっていった訳です。
希望の大きな力
高村さんの取材はハンセン病の元患者さんのところまで進みます。
第10章は終着点として「ハンセン病患者と大詩信仰の深いつながり」となっています。
わたしはふと、この国の大師信仰は、まさにハンセン病患者たちがいてこそ営々と息づいてきたのではないかと思った。療養所ができる前、故郷を追われた患者たちが、全国から四国を目指して死出の旅に出たとき、口ずさんでいたのは弘法大師和讃の「業病難病受けし身は、八十八の遺跡に、よせて利益を成し給う」であろう。孤独と悲惨のなかでこれほど強い信仰が保たれてきたのは、ハンセン病患者たちの大師信仰がまさに信仰であった証である。今の日本にこれに似た信仰が存在するとすれば、わずかに東日本大震災の被災地にある祈りぐらいではないかと思う。
高村さんは空海の築いた真言密教は新仏教などにその場を奪われたとします。
時代に追い越されてしまったのです。
でも、民衆の中には大師信仰として根付き、理解を超える災難に直面したときに大きな希望として湧きあがってくるのです。
高村さんは夢みます。
その唯一無二のオーラが密教の秘儀と溶け合う時、空海の執り行う法会はどれほど見事なものであったことだろう。空海が生き仏になってかもしだす霊験は、法会に居並ぶ天皇や貴族たちと感応道交し、それこそ大日如来の顕現かと思われたかもしれない。
もしタイムマシンがあったなら、私は誰よりも生きた空海その人にあってみたい。
神秘体験から、たぐいまれな行動力と知力でまい進していった結果の真言密教だったから、ほかのだれも後継者となれなかったのでしょう。
わたしには宗派の違いとか哲学はまだはっきり理解できていません。
この本を読んで、空海が後世作られた偶像である部分が良くわかりました。
これからも、大師信仰が続いていくかはわかりませんが、最近の高野山の人気ぶりを見ても、日本人の心の底には論理を超えて祈りをささげたり対象が必要とされていくのでしょう。
それにしても、空海は捉えがたいほど大きくて魅力的な存在です。
高野山にも行ってみたいと思います。