梅原猛と密教
梅原猛は西洋哲学を学んでいたのですが、それには疑問を持ち日本や東洋の思想に惹かれていったのだそうです。西洋の思想は行き詰まりに直面しているというのは、ニューエイジの考え方にもにています。私も夢中になって読んだ『聖なる預言』とかでもそういう考え方が示されています。
いつも繰り返しそういう考え方が出てきます。
この私の自らの思想的問いの中で発見した密教哲学は、私にとって、はなはだ魅力的であった。それはそれ以前に私が知っていた浄土真宗の哲学や、禅の哲学とも全くちがっていた。大日如来の光明のもとに、万象が照り輝く、絢爛たる不思議な宗教的世界、私はその世界のとりこになって、(21p)
この本は1980年に書かれています。30年以上前にかかれているわけですが、その後梅原さんがどのように考えが変わっていったかはしらないのですが、こと時点では密教にとても惹かれていたようです。
三密
空海の『即身成仏義』を読み解いていきます。
「三密加持すれば速疾に顕る。」三密というのは身密、語密、意密であるが、われわれの身体、言葉、心には、それぞれ深い秘密がかくされていて、ふつうの仏教ではとても説き尽くせない。この三密を通じて、われわれは大日如来と一体になるわけである。(68p)
この三密はインド哲学でも出てきた言葉です。身・口・意だったかしら。
からだの修行はヨガのアーサナにあたるでしょう。
口はしゃべる言葉に加えて書くこともふくまれるとおもいます。私がブログを書くのもこのしゅぎょうだと思っています。
意とは、心の修行で、哲学を学ぶこと、本を読むこと、瞑想することなどでしょう。
アーサナをするだけでもなく、たわいないことをしゃべったり書いたりするのとは違う、心に向き合って書いたり行動したりできたらいいと思います。
この境地が、密教の悟りの境地であろう。自己は世界に対して完全に透明になっている。われはあるごとく、なきがごとく、世界はあるがごとく、なきがごとく、すべてがわれにおいてあり、われはすべてにおいてある。不思議きわまる世界。一度、その境地に目覚めたら、あらゆる智慧はむなしくなる。そういう智慧を空海は説く。(71p)
じぶんと世界との境目がなくなることが、本当にあるのだろうかと思います。でも、量子力学ではそうらしいし、『般若心経』にもそうかかれています。
柳澤桂子さんの本には、それを実感できた神秘体験についてかかれています。
余談ですが、柳澤桂子さんの新訳『般若心経 生きて死ぬ智慧』の挿絵を描いた堀文子さんにお会いして、本にサインしていただきました。私の宝物です。
肯定の哲学
大乗仏教は、伝統的釈迦仏教の持っていた現世否定の精神を、大幅に訂正したけれど、なお、それは、やはり、否定精神をその内面に深く宿していた。空海の言葉によれば、悟りの究竟は遮情によって表現されていた。
しかし空海は、それでは不十分だというのである。仏教がもっていたこの現世にたいする否定精神を否定する。それが密教の精神であり、それこそ、大乗仏教の究極的精神であると彼は言う。(55p)
世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限の宝を見つけることが出来ない。無限の宝というものは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある。世界の無限の宝を開拓せよ。(57p)
阿字観
真言宗のお寺での瞑想に阿字観というものがあるらしいのです。
高野山の宿坊でもその体験ができるとガイドブックに書いてあります。その阿字観についてもこの本のなかにわかりやすい説明がありました。
密教では阿字観というものを行う。つまり、そういう一切のものがそこから生まれ、そして、一切のものがそこに帰する根源的存在を観想することによって、小さなことにとらわれて、悩み苦しんでいるわれわれの心の執着を絶ち、われわれの心をそういう根源的なものと一体にさせようとする勧行である 。
人間はいつも、とらわれの世界に住んでいる。自己にとらわれ、他者にとらわれ、小さな世界にとらわれているので、自由をえない。自由をえないから、本当に楽しくない。
そういうとらわれの世界から自分を解き放ち、自己の生命がそういう根本的なものと一体になることによって、人間は限りなく自由になり、そして限りなく楽しくなる(95p)
歓喜の歌
梅原猛は密教は墨染めの衣をきた厭世的なものでなく、五色の衣をまとった魅力的で光とエネルギーに満ちている世界だととらえたようです。
それは永遠に否定の深淵に人間をおきざりにすることを好まない。もう一度人間に、生命の歓喜の歌を歌わせねばならない。 (108p)
そいえば、インドの神々も欲望のままに行動し、豊満で喜怒哀楽の表情豊かです。
そんな目で見たら、真言宗のお寺とほかの宗派のお寺とが違っているかもしれないです。
空海の思想は深くて難しいのでしょうが、少しその入門ができたようです。