詩吟の昇段試験というものがあった。
課題吟を2つ審査員の前で吟じて、昇段に値するかどうかを審査してもらう。
その時に経験したこと。
最初の課題を吟じるとき、作者の名前がとっさに出てこなくて焦ってしまった。
そしたら、前奏があったのにそれを聞く余裕がなく、事前に申告しておいたキーより高い音で出てしまい、最後までそれを通してしまった。次の吟では、さらに高い音で出てしまった。
前奏無視での、練習してきたのと違う本数(キー)での吟だったが、途中で元に戻ることなくそのままで最後まで吟じてしまったのはすごい、というほめられ(?)方をした。
自分の吟には集中できていたと思う。
でも、前奏で音を確認していつもの音程でできなかったのだからほめられたことではない。集中して周りが見えなくなる、この場合聞こえなくなるのが問題。
音として聞こえていても、意識できていなかったのだ。
耳が機能していなかったのと、前奏で音を確かめるという作業を忘れてしまった脳の思考停止というこれも一種の機能不良といえる。
集中はできていたけど、ていねいでなく自分を見失っていた。
そこで、もっと広げて考えてみた。
意識をいろんな方面ていねいに巡らしていくことが、意識的主体的に生きることにもつながるのではないだろうか?
その訓練をしていくのが、ヨガのアーサナでもあると言えるのではと思ったのだ。
ヨガのアドムカシュヴァナーサナでも、意識することはたくさん。
手の指は大きく広げ中指がまっすぐ、手首のほうで押しながら肩は外旋。
足の指もできるだけ広げ、かかとはできるだけ床に降ろすけど、それより背骨の下を伸ばすほうが大事。
膝を伸ばし腿を後ろに押しながらお腹も引き上げて・・・・
もう細かいことはたくさんあって、それを丁寧に意識していくことになる。
ヨガニードラの最初に「身体の各部分を旅するように意識をめぐらせていく」儀式のような時間がある。
マッスルトーンを整えるということもあるし、各部分をリラックスさせることでそれとつながっている脳の部分をリラックスする効果もあると思う。
それに加えて、身体全体に意識を巡らせるためのトレーニングにもなっているはず。
ヨガニードラの時たまに、これはもう毎回同じだし、パスしたいなって思う時もあるのだけど
意識を巡らせて体全部を自分の意識下においてコントロールするための練習と思うことにする。
何か事が起こって、パニックになりそうな時にも、しっかり見て、聞いて、判断できること。それが心の平安にもつながるのではないだろうか。
なんだかとりとめもなく考えが広がっていくけど、何でもヨガと結びつけて考えることができるものだってことがわかった。
これが Yogic Life ってことかな。