70歳過ぎて自在に生きる ほいみんの日記

断捨離から、ヨガ・インド哲学・音訳へと関心が移っています。

無印週間と出会い

無印週間

実は無印良品が大好きなんです。

本当に初期のころ若い私は「訳あって安い」というキャッチフレーズに飛びつきました。

その商品開発の基本は、生活の基盤となる本当に必要なものを、本当に必要なかたちでつくることであった。
そのために、素材から見直し、生産行程の手間を省き、包装を簡略化していった(無印良品のコンセプト)

「ワレたり欠けた物も入った干ししいたけ」とか「端っこもある乾麺」など覚えています。

 

洋服もシンプルで素材が天然オーガニック寄りなので気に入っています。

 

カフェも好き

日曜日に銀座のスタジオでヨガの練習をした後、有楽町のMUJIのお店により、カフェで食事をするのがお決まりのコースでした。

そこでゆっくり本を読んだり周りの人の服装を眺めたりするのです。

 

スタジオの帰りなのでヨガマットを担いでいて、店内を歩き回るのはちょっと無理ですが、ヨガの後の空腹に野菜が多めのヘルシーなカフェメニューがぴったりでした。

並んでいて

カフェは人気で、いつも行列ができています。

今日も並んでいたら、外国の方と知り合いになりました。

日本語もできるのですが、無印のカフェはメニューの選び方が独特なので、お手伝いをしました。

私はおせっかいなのです。

並んでいる惣菜の名前とか使われている材料などを教えたり、白米と十穀米の違いを説明したりしたのです。「穀」の意味を聞かれて説明に困りました。

 

思いがけず食べる席も近かったので、声をかけて隣に席を移動して食べながら会話を楽しみました。

 

日本語の勉強をしていて、いろいろなことに好奇心がある方だったからです。

 

フランスのお母さん

息子さんがカメラマンで、7年(たぶん)日本に住んでいたそうです。

今はパリに住んでいるのですが、飯田橋のアンスティテュ・フランセ日本(旧日仏学院)で展覧会があるので、一緒に来日したのだそうです。



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*何を撮る写真家と聞いたら、「説明は難しい」確かに、芸術作品です

 

ひとり息子が遠い日本に行ってしまい、日本の何に魅力を感じたのかを知りたくて、それから日本のことをたくさん勉強したそうです。

 

もう日本に来るのが7回目(たぶん)ということです。

 

日本に詳しい

日本語の会話だけを学んでいるのではなく、大学で日本の文化や文学歴史などをしっかり勉強しています。

川端康成夏目漱石村上春樹などの名前がどんどん出てきます。

 

インターナショナルスクールでフランス語と演劇を教えていたそうで、日本の演劇も見ています。平田オリザはフランスでも有名って、はじめて知りました。

 

もうお話が面白くて、楽しくて、彼女の魅力に惹きつけられました。

 

日本語を学ぶ過程でできた友達がたくさんいて、その友達を訪ねて各地を回ります。

今回は倉敷・岡山・京都・名古屋・静岡・伊豆です。

 

私が行こうと思ってまだ行っていない高野山や伊勢にももう行っていました!!

宿坊に泊まり、空海のことも当然知っていて、本当に話が尽きませんでした。

フランス人と漱石の『それから』の話をするなんて、うれしくてもう興奮してつい声が大きくなったかも。

でも、隣にいたさわやか男性も好意的に見ていてくれて、帰り際うるさくして御免なさいと言ったら、笑顔で「ウェルカムですよ」と言ってくれました。

(無印に来る人って、いい人が多いんだなぁとこれもちょっと感動)

 

息子さんは今40歳。たぶん彼女は私より年上です。

その彼女の行動力・知的好奇心の大きさ・フレンドリーな姿勢に心を動かされました。

洋服はシンプルで目立つアクセサリーもなし。スニーカーにリュックです。

知識に裏付けられた「エスプリとユーモア」で輝いて見えました。


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*彼女のサイン。初日のレセプションにも招待された!!「飲みましょう!」って


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*会期は3月30日から4月28日 飯田橋すぐ 入場無料です

 神楽坂とか桜見物もかねて行ってみようと思います

 

私も、もっともっと自分の命を輝かせていきたいと思いました。

 

見たい・聞きたい・知りたいに貪欲になりたいです。

 

そのための体力(気力)をつけたいと思うと、ヨガはそんな自分を作ってくれるツールでもあるんだと気がつきました。

 

無印とヨガ

無印には以前ヨガウェアがありました。

今はあまり扱っていないようで残念です。

 

無印とヨガには、共通した思想があると思います。

 

自然とかシンプル、物事の本質を大事にして華美に飾らないとか。

 

私が昔から無印が好きだったのは、そしてヨガに導かれて今練習を続けているのは、私の芯のところにある価値観が変わっていないということ。

 

迷うことが多く、あれこれ手を出しているようで、本質的にはこの方向を目指していたんだろうなって、そんなことを思わせてくれた無印での出会いでした。

 

フランス人にしては小柄な彼女は、サイズの合う日本の無印での洋服選びを楽しみにしているようです。

私は、今回は目の保養をしただけで洋服の購入はしませんでした。

ヨガが生活の中心になりそうな今後、どんな服装をしようか考え中だからです。

 

志木のヨガセンターでは綿のウェアが推奨されています。

無印のオーガニックコットンとかリネンで、装いたいなって夢想しています。

バスの中で こんな時間の使い方

今まで

なんだか自分でも恥ずかしいことだと思うのですが、気がついてしまいました。

なんて馬鹿なんだろうって。

 

今までヨガセンターに通うバスの中で、スマホばかり見ていました。

 

最初はポケモンGOで、途中にあるポケストップモンスターボールを集めていました。せっかくポケストップがあるのだから、集めてなくては損なような気がしたのです。

 

モンスターボールを集めポケモンをゲットすることが、「小さな成功体験」として心地よいものだと思っていました。

 

(人のこと言えません。私もなんて器の小さなせこい人間なんでしょう)

 

そのうち、これは時間の無駄だと思い、少しでも頭の体操をしようと「SUDOKU」のアプリをいれて、問題を解くことにしました。

私の苦手とする「理系の論理的思考」を鍛えるのにいいと思ったのです。

普通レベルでも私には難しく、簡単レベルでたくさん問題を解いています。

だんだん短時間で解けるようになりますが、普通レベルはまだ難しいです。

 

夢中になってバスの最後のひとりになったこともあります。

 

今は

外を眺めたり、考え事をしています。


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*バスで通るたびに枯れ木のようだったのが、花がどんどん咲きだしました

 

季節の移り変わりを見たり、街並みや風景を観察します。

一番したいのは、ヨガのことです。

 

行きのバスでは、前回の練習で使ったプロップスの使い方を思い出します。

何度もしているスプタ・バッダ・コーナアサナやセツ・バンダアサナは、ポルスター・ブランケット・ベルトをいろいろな方法で使います。

ベンチを使ったりサンぺルカなど今まで見たこともない道具も出てきます。

その使い方を家に帰ってメモしたりするのですが、すぐ忘れてしまいます。

 

そして、帰りのバスの中ではその日の練習を思い出し確認することにしました。

スマホをいじっている場合ではありません!!

 

思い出して、手帳に下手な画をかいてみたりするのですが、どうもうまくいきません。
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*苦手なお絵かき、アサナの正確な名前もよくわからず暗号みたい(汗)

 

 

ヨガセンターで教えていただいたことを、思い出してしっかり頭の中に定着させたいのです。

 

プロップスの使い方のほかに、たくさんの教えをいただくことができます。

・アイアンガー先生はこんなことをおっしゃった。

・このアサナの目的は・・・・

・下腹部を緩めると身体のこんなところにもいい影響が・・・

 

毎回たくさんの学びがあるのに、どんどん忘れてしまうのは本当にもったいないことです。

 

バスの中の時間を、もったいなく使うためには、ヨガのことを考えることが一番いいのだと、やっと最近になって気がついた私です。

 

いろいろな時間の過ごし方があっていい

バスの中でゆったり窓の外を眺めているのも好きになってきました。

今は春なので、木々がどんどん芽吹きつぼみを膨らませ花を咲かせています。

 

その変化を見るのも楽しい、幸福な時間です。

 

スマホのゲームをするより、ヨガのことを考え季節の移ろいと自然の豊かな恵みに心和ませるのが、今のわたしにとっていい時間の過ごし方です。

 

でも、過去を否定はしません。

一見無駄だと思えても、その時は必要だったかもしれないです。

 

いろいろな時間を楽しむことも、豊かな人生です。

 

 

 

ヨガで体が伸びるといいことがあるのです。

何を求めて


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今日の練習で純子先生が、「アサナをして身体が伸びるとどんな変化がありますか」というような質問をされました。

 

みなさんが、暖かくなる、気持ちよくなる、うれしくなる、など自分の実感を答えました。

 

ヨガの目的は、身体を伸ばすことではなくてその先にあります。

私は幸せで平安な心ではないだろうかと考えました。

幸せな心を脅かす不安、実体のない不安に心を奪われないことがヨガの目的のように思います。

 

純子先生の答えはそれとは違っていましたが、底に同じ水の流れを感じました。

 

身体を伸ばすといいことがあるのです。

心まで変わってくるのです。

 

瞑想

ヨガのアサナをするのは、瞑想の時身体(特に足)が痛くならないようにするのだとも言われます。

瞑想が目的で、アサナはその準備運動だというのです。

最初その話を聞いた時は、「まさか、そんなはずない」としか思えませんでした。

 

この頃はそれが少しわかると同時に、ポーズをとっているときも瞑想の一種なのではと思うことがあります。

 

・自分ではここまでできるけど、これ以上はできないと見定めること

・練習を続けることで成長することを実感して、自分に自信をつけることができること

・できないと思っていたことも、挑戦することで、凝り固まった考えが変わる

 

心が人間関係などでわさわさしていても、アサナに集中していたら忘れてしまい、そのあとは心が軽くなることはよく経験することです。

 

このメカニズムは古代インドの哲学者がしっかり考えてくれています。

 

学びは深く

ヨガセンターに通いだして、まだ半年にもなりません。

入門クラスで基本的なポーズを練習しています。

 

マットに立ち、手を上に伸ばすターダアサナ・ウールドヴァ・ハスタアサナだけでも、練習のたびにまだまだと思わされます。

支える足の強さ、足裏や膝・太ももへの意識をめぐらせ、腸骨と尾てい骨の方向の確認をします。

みぞおちは出さず背中はそらせないで、後頭部と背中を意識して肩を後ろに・・・・・

 

こんなふうに、上に伸ばす手以外にもたくさんの意識をめぐらせていくアイアンガーの教えです。

 

物理的に意識をめぐらすだけではなく、そこに知性とか意思も加わりますから、毎回の練習は盛りだくさんの情報で、頭に入りきれません。

 

ヨガセンターは道場です。

 

ヨガの学びは深く、身体は伸びて心は「静かで素直で純粋」になることを目指します。

 

 
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アサナするだけがヨガでないこと再発見

家での自主練習はいつ

ヨガセンターでアサナを練習していると、自分の身体のかたいところやできないポーズに気がつきます。

先生の言葉にたくさんの気づきや発見があります。

なるべく覚えているうちに書きとめようと努力し始めました。

 

それと同時に家でも練習したほうがいいと思うのですが、それが今はできていません。

 

朝は忙しい

本当は朝食前にヨガができればいいのですが、今の生活では無理です。

6時までには食事用意を終わらせる必要があります。

 
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今日もふと気がついたらいくつもの作業を並行して進めていました。

・コーヒー用のお湯を沸かして、フィルターに粉を入れる

・小さなフライパンでポップコーンを作っている

・大きなフライパンで豚肉そぼろを混ぜている

・グリルでは厚揚げを焼いて、めんつゆにつけて常備菜にする

・電子レンジでは昨夜のおかずを温めなおしている

・糠漬けを出して刻む

 

お弁当がないからこれだけですが、平日はこれにおにぎりづくりが加わります。

 

でもそのあとは

でも食事つくりが終わった後は、アサナの練習ができるはずです。

それができないのは、

 

ご飯を食べてしまうからです。

 

食欲に勝てません。

作っているあいだに、どんどん食べたいモードになってしまいます。

暖かいうちに食べたほうがおいしいからとか、ヨガに行くから早めに食べておかないととか、自分に言い訳しています。

 

食後2時間はアサナはしないほうがいいとされています。

 

だから、朝ご飯を食べたらもうヨガができないとなってしまうのです。

 

その後もだらだら間食をしたりして、「空腹時」という状態があまりナインが今の状態です。

 

アサナだけがヨガじゃなくて

今日も11時からの練習に行くため、小さなそぼろどんと糠漬けをおいしく完食してしまいました。

 
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そのあと、気がついたのです。

アサナをするだけがヨガではないことを。

 

家の掃除をして身体を動かせばいい。

 

いままでも頭ではそうなんだけどと思っていました。

掃除をヨガだと思って頑張れば、家もきれいになるし身体も動かせ気持ちもよくなると思うのですが、行動に移せずにいました。

 

今日は心から掃除も嫌がらずにヨガと思って使用しようと、思えました。

それは、昨日の練習で純子先生がおっしゃったことと関係がありそうです。

スーリヤナマスカーラ(太陽礼拝)の流れをテンポ良く進めていく練習の時です。

 

ヨガで鍛えられるのはなんですか?と質問されました。

答えは

適応力

いつもと違う方向にすぐチェンジできるようになる

 

頭を切り替え、身体を動かすことが苦でなく、腰が軽くなるのもヨガを続けるとできるようになります。

 

今日はいつも気になっていた庭の草取りをしてからヨガに行くことにします。

草取りも掃除もヨガです。

終わったあとが、気持ちがよくなりますから。

 

お腹がいっぱいでもできることたくさんありますね。

アサナをすることだけがヨガではありません。

自分を甘やかしてはいけません。

 

 

 

 

プロップスの使い方 自分が実験台

質問をしました

いつも疑問に思っていることを、機会があったので思い切って練習の後にお聞きしました。

アサナをするときの、プロップスの使い方についてです。

アイアンガーヨガ「完全マニュアル」を見ながら家で練習をするとき、同じアサナでもプロップスの使い方にいろいろなバリエーションがあります。

 

それのどれをすればよいのか。

またプロップスは使わないでするほうが、より効果的なのか、などです。

 

先生は「自分の身体を実験台にして、自分で心地よさを探してみなさい」というようなお話をされました。

もっといろいろお話してくださったのですが、再現はできません。

 

ひとりひとり違うのだから、こうしなさいと型を教えるのではなく、自分の身体を観察し感じ、知性でもって探っていくのがアイアンガーヨガの教えなのかな、と思いました。

本に書いてある

そのあと、家で「完全マニュアル」を読み返していたら、ズバリそのことが書いてある部分があるので驚きました。

アサナの正しいアライメントと動作を学ぶために、プロップスの使用を推奨している。導師は識別力がついた後は、プロップスを使用した際と使用せずに間違った動作になってしまった際の感覚とを比較し、プロップスを使わずに内省しながら練習すべき (完全マニュアル P.23)

 

 以前にも読んだ箇所ですが、私が今日疑問に思い質問したことで、「あ、ここにに書いてある」と気がついたのです。

思い切って質問してよかったです。疑問を持ち、考え、読むことで学びが深まります。

 

学ぶこと

ただ本をたくさん読むだけでは、学びことにならないですね。

血となり肉となり、ではないですけれど、自分の頭で本当にそうかなと考えて、確かめることが大切です。

 

ヨガの学びは自分を実験台にして確かめることができます。

それも、日常生活の中で。

 

日々学ぶことができます。

 

立つこと、座ること、歩くこと、意識することで私の身体が変わります。

 

まずは、傷めている膝をしっかり治すための、足の使い方鍛え方です。

ヨガセンターで方法は学んでいますから、実践して、経過と結果を確かめましょう。

 

今は

・アドー・ムカ・ヴィーラアサナはできるようになった

・スワスティカアサナはかなりできるようになったが、まだ違和感があるときもある

・ウトゥカタアサナ で中腰の姿勢はできない

・ジャンプをすると後で痛みが出る

 

思えば昔から右膝はよく痛めていました。どのくらい治るか楽しみです。

 

よかった!『この世界の片隅に』

勧められて


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しばらく前から知人に見るといいと言われていた映画『この世界の片隅に』をみてきました。

ミニシアターでの公開から、人気が出てどんどん公開劇場が増えてきたのは知っていました。

 

都合がついてやっと見に行きました。

 

見たくなかった理由

勧められてもすぐには見たくなかったのには理由があります。

戦争もので主人公がかわいそうだったりすると、気持ちが落ち込むのです。

体調が良くないと、悲しい物語を見る気持ちになれません。

 

それでちょっと元気になってからでないと出かける気持ちになれなかったのです。

 

*体調の悪い時はもう結末のわかっている、頭を使うこともなく感情の(特にドキドキ)揺さぶられない、軽いサスペンス物を繰り返し見たりしています。

 

引き込まれて一気に

上映時間が長いのに驚きましたが、途中寝ることもなく一気に見ました。

中だるみもなく、程よい緊張感で最後まで面白く見ることができました。

 

私も知っている昔の情景、たとえば天井のシミを見つめたり、縁側でスイカを食べるところなんか、懐かしかったです。

 

今の人はわからないだろうけど、懐かしく思うのかしら?

 

笑いながら生きる

主人公のすずがちょっとおかしなことをして、婚家の家族みんなで笑うシーンがありました。

そのとき、本当に幸せそうでした。

 

笑う事って本当に大切だし、幸せを作る大きな力だと思いました。

 

どんなときにも笑う事はできるし、笑う努力はできますよね。

なかなかできないけど、そこは意志の力で笑う努力かしら。

 

 意思の力をつけることも、ヨガの修練で培うことができます。

 

自分が笑うこと

人に笑ってもらうことは難しいけど、まずは自分が笑うこと。

 

愉しんで笑って、小さなことにも感謝と笑い、

何かのスローガンみたいですが、何度も何度もくりかえし思い起こしたいことです。

 

映画のすずも、笑顔を忘れないステキな女の子、女の人でした。

『アルジャーノンに花束を』居場所のない不幸 居場所があれば幸せ

一気には読めなかった


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どんな内容か知らずに手に取ったので、最初の文体に驚きました。

幼児の知能しか持っていない32歳の男性が書いたレポートなのです。

たくさんの平仮名と間違った漢字で、しゃべりことばをそのまま文字に起こしてあります。

句点もなく、意味が分からず読みにくいと思いました。

これがずっと続くなら、無理だと思い、パラパラ飛ばし読みをしてみました。

 

もっと字を読んだり書いたりすることができれば、家族や友達と仲良しになれると思う主人公が、脳の実験的手術の結果どんどん知能が向上していきます。

数か月で天才級になり、今までのことの感じ方も変わってくる内面をレポートに書き続けていきます。

 

自分の想像力が試される

主人公は知能的に幼児の状態から、天才級まで変化していきます。

その時々に感じ考えたことを、レポートしていくのがこの小説の内容です。

読んで私が感じたのは、自分の想像力のなさです。

私がわかるのは、私自身の程度でしかないということです。

 

物事が理解できない、やろうと思っても失敗してしまう、覚えたつもりでもすぐわすれてしまう、そういうもろもろを、自分軸の価値判断でしか見ていないことに気がつきました。

 

できるひとは、すごいなと思います。でも、できない人にはその心に寄り添い、できなくてもいいよと優しい気持ちになっているとは言えないということです。

 

自分だってできないことがあり、以前はできなかったし、これからできなくなるかもしれない、そう言う事を想像できない私でした。

 

そう、今の自分が基準じゃない、できないこと、できること、丸ごと認める心の太さみたいなものがあるといいです。

 

これって、ギーターで出てくる「二元論を超える」につながる考え方です。

善悪、勝ち負け、それが同じように見えるってことにつながります。

 

相手の立場に立つという想像力が豊かにあると、そういう心境に近づけるかも。

存在していていい

一番のメッセージは、「どんな人でも、存在していていい」ということだと感じました。

主人公が、普通並みの知能を持たないころをまるで人間として存在していなかったかのように言われて、強く抗議します。

 

知能が低かったり、幼かったりしても、人にやさしくされたらうれしいし、自分が他人に受け入れられ尊重されたらうれしい。自分が他人の役に立てたと感じることも喜び。

 

そう、喜んだり悲しんだりそれぞれが一人前で尊重されるべきだということです。

 

丁度映画の『この世界に片隅に』をみたばかりだったから、これがとても胸に響きました。

映画の中でも、「この世界の片隅に私を見つけてくれてありがとう」というフレーズがあります。

 

世界の片隅に、ひとりひとりが自分の生を紡いでいきます。

 

そのひとりひとりが、それぞれ尊重される権利があるのだと思いました。

 

安心していい

存在が尊重されるとは、安心できることです。

不安や恐れが、人を不幸にします。

そこにいてもいいよ、丸ごと認めるよ、とされたとき人間は安心して生きていくことができるのでしょう。

 

漠とした不安に心を乱されることが多い私です。

でも、その前に

私は人に不安を与えていないだろうか、と考えてみます。

 

安心していいよ、そこにいていいよ、という態度と言葉かけをしたいものです。

 

他人を変えようとしない

そのままでいいよ、ということは相手を変えようとしないことです。

 

変えようとするのは、今の状態をよくないと判断しているのだと相手に思わせ、不安とか時によっては怒りさえ起こさせてしまいます。

 

いままでの対人関係の失敗はこの辺に理由がありそうです。

 

あるがまま、なるようになって

他人を変えようと思わないことと、事態を変えようと思わないこと、その両方を心がけていこうと思います。

 

自分がジタバタしても事態が変わらないのだとしたら、

あるがまま

なるようになる

そんなふうにしたほうが、自分の心が楽になります。

 

物語の主人公は、悲劇的な(?)将来を自覚してから、苦悩の末になすがままに運命を受け入れていきます。

 

人生には抗えない山や谷があります。

私たちはその場その場で、かけがえのない存在として生き続けるのですが、自分を大事にすると同時に他人も大事にしたいと思います。

 

アルジャーノンに花束を』の最後で主人公は「僕をかわいそーとおもわないで」とかきます。

 

知能が低くても高くても、身体機能が高くても低くても、美しくても醜くても、その他いろいろなことがあってもなくても、「かわいそーな存在」にならない世界がいい世界だと思います。